開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

サルトル読解のために

存在と無」理解の一助にするために、日本サルトル学会から以下を引用する。「形而上学」の独自の使い方に興味を持った。

 

第42回研究例会
日時:2018年12月8日(土) 14 :15~
場所:立教大学 5号館5209教室

研究発表
赤阪辰太郎(大阪大学
「『存在と無』における形而上学について」

赤阪氏は『存在と無』の現象学存在論の根底でその経験を支えている次元、すなわち形而上学はどうなっているのか、という関心から、前期サルトルの著作を読み解いた。
赤阪氏はこの作業を進めるにあたって、哲学的著作のみならず、文芸批評も考察の対象に入れる。というのも、サルトルは文芸批評を執筆する際、著者の形而上学に着目するという手法をしばしば採用していたからである。赤阪氏によれば、サルトルは、〈ひとは各々の形而上学をもっており、その形而上学はその主体のありかたに相関して形成される〉と考えていた。したがって、その人の形而上学を明らかにすることは、当人の主体のあり方を明らかにすることにつながるのである。
 今回の発表では、赤阪氏は「形而上学」という語の用法を3つの点にまとめた。
第一に「所与の解釈を歪める思弁としての形而上学」である。この意味での用法は『想像力』に見られる。サルトルは心理学者たちを批判する中でこの「形而上学」という語を使っていた。サルトルはそこで、心理学者たちが自分たちの形而上学を無批判に採用し、それをもとに経験的所与の解釈を歪めている点を批判していたのである。
第二の用法は「文学的地平における形而上学」である。文芸批評を執筆する中で、サルトルは、小説作品から読み取れる形而上学は作品内の要素に統一性を与える原理として活用されるべきだ、という考えをとっている。これは小説作品においては形而上学と技法が一致すべきだ、という規範的な考えともいえよう。赤阪氏はさらに『文学とは何か』などの著作を読み解きつつ、作品の形而上学は、作家が置かれた状況への応答でもある、と述べた。
最後に赤阪氏は、『存在と無』に見られる用法として、「根源的な偶然性を語る論理」としての形而上学、という用法をとりあげた。赤阪氏はここで形而上学を、一種の「問いかけをし、答えを引き出す手続き」として解釈する。ここで赤阪氏は、サルトルの「形而上学」という言葉づかいを分析するというよりは、『存在と無』を直接読解し、サルトル自身の形而上学を明らかにしようとする作業に踏み出すのだが、今回の発表ではこの部分の作業はまだ不十分なままにとどまっていたように思われる。現在執筆中の博士論文では、『存在と無』での「形而上学」の用法をより詳細に分析し、サルトル形而上学観が明らかにされるだろう。
前期サルトルにおいて、「形而上学」という用語の使い方はたしかにいろいろと揺れが見られるものであり、その言葉づかいのぶれを分析することは、前期サルトル理解に多いに資する作業となるだろう(報告者としては、とりわけ「サルトルフッサール現象学をどう受容したのか」という観点からこの作業を進めることは、サルトル現象学観を理解する上で非常に重要な作業だろうと期待している)。また、文学批評などとつきあわせながらその形而上学観を考察しようとするチャレンジングな試みについては、当日の質疑の中でも期待が寄せられていた。赤阪氏の今後の博士論文に期待したい。(森功次)