開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

(公論)「職業としての小説家」書評

村上春樹論として的確で素晴らしいと思ったので、Amazonの書評欄から記録の意味でぼくのこのブログに転記させていただきました。

 

身を賭して危ないエリアに降りてゆくことは、不健全で美しくも正しくもない?    

長崎成明  2019年4月9日

長篇も短篇も1980年代半ばまでくらいまでは全部読んでいたかなぁ、単行本未収録の一本で文体の実験を試みたと思われる暗~い中篇『街と、その不確かな壁』も。その後はエッセイも含めてチョボチョボ、久しぶりに読んでみようかと思った理由は、安彦良和さんの『革命とサブカル』(言視舎)で取り上げられ、“学生運動に関わっていたことを語り始めた”とあったから。  

単行本P37~(文庫本P41~)、“みんなと一緒に何かをするのが不得意で、そのせいでセクトには加わりませんでしたが、基本的には学生運動を支持していたし、個人的な範囲でできる限りの行動はとりました”と。

その後、内ゲバが激しくなるにつれ他のおおかたの学生と同じく幻滅して身を退くわけだが、あまりにもあっさりと書かれていて個人的にはちょっと肩透かし。

しかし、これまでに読んできた小説や随筆から元々腥(なまぐさ)いものが苦手な質(たち)であろうことは伝わっていたし、言葉にしにくい漠然とした不安のようなものを物語という想像以上に容量の大きな装置を通して慎重に表現してきた作家であり、続く内ゲバに走った運動に対して“健全な想像力が失われてしまっている”、“どれだけそこに正しいスローガンやあり、美しいメッセージがあっても、その正しさや美しさを支えきるだけの魂の力が、モラルの力がなければ、すべては空虚な言葉の羅列に過ぎない”という件は、著者の本質に関わる記述として重要だ。

それにしても、随所で零しているように、春樹さんって文芸評論家や研究者、同業者の作家たち、さらに共同作業のパートナーである編集者たちからも、こんなに批判されていたのかと唖然、茫然。

言われてみれば、強面で有名な渡部直己さんなんか、三歳下にも拘わらずかなり早くから「たかがありふれた大衆小説家じゃないか、拡がりもなければ深みもない」と、そこまで酷評するかというくらいボロクソに言っていたね。

第七回は、自らにつきまとうイメージを払拭する正当な弁明のようであり、ロンドンの郵便局に生涯勤め続けたアンソニー・トロロープ、保険局の公務員だったカフカを例に挙げて評価し、(彼等とは異なる)破綻と渾沌の中から文学を生み出す反社会的な文士を“クラシックな小説家像”と揶揄、そういうものを求められても自分は自分でしかなく、ルーティン・ワークとして毎日10キロのランニングをし、自分のペースで小説を書き続ける、と。

そこで憶い出したのが、パリ国立図書館にずっと勤務しながら、かなり危険な思想を育み、反社会的な論考や小説を書き綴ったジョルジュ・バタイユはどうなんだろうということ。もっともバタイユは毎晩のように売春窟に通い詰めて放蕩の限りを尽くし、毎朝のように宿酔いで遅刻し続けたのだが。

そう言えば、「LSDを100ミリグラム!」と書いて亡くなったオルダス・ハックスレーのように、自らの精神と身体を賭して実験台となりながら夥しい危険に晒されるエリアへ下りて行ってまで物事を探求したり、砲弾飛び交う戦場でタイプライターを叩き続けるタイプではなく、そういった像を世間が求めているのではないかと冗談めかして不安がる箇所がある(単行本P178、文庫本P196)。

同世代を席捲した全共闘や思い詰め追い詰められていった連合赤軍に反撥しつつ何処か拭い切れない共感があり、「連赤とオウムを一緒にするな」という声を充分に知りながら近接するものを感じて書いたのが、地下鉄サリン事件を扱った『アンダーグラウンド』なのかも。

春樹さんは不可思議な対象に深い関心、興味を持ち、自分なりに調査分析、研究を行うが、飽くまでも観察者=客観的立場に終始し、自らの抑制を危うくさせるようなところまでは決して降りてゆかず、自分を危ない実験台にはしないタイプだろう。

何故なら、先に挙げたように、そのような行為はとても不健全で、職業として小説を書く作家であり続けることに支障を来すと思っているからでしょう。

“第十二回 物語があるところ・河合隼雄先生”で、異様と思えるほど日本におけるユング心理学の第一人者へのシンパシィを認め、その方面の知識の乏しさと交友関係全体の狭さを露わにしているが、過去の作品も含めて類推すれば、小説は想定以上に幅広く読んでおり(日本ではマイナーな海外の女流さえも)、ポピュラー音楽にはそれなりに造詣が深いものの、世界中あちこち行っていて接する機会が多々ありつつ美術への興味はあまり示さず、数学や科学(とりわけパラダイムとなった量子力学)、そして民俗学や宗教学などについては、ほぼスルーに近いのではないかしら?

中流家庭の一人っ子として育ち、運命らしき女性と若いうちに縁があり、一度も企業奴隷になることもなく、それらが要因の負荷を総て受け止めた上で、自分が楽しいこと、否、楽しめそうなことを必死に模索し続けた生き方だったのだと再確認。

強烈なウォトカや癖の強い焼酎、主張がややあるかもしれないハイネケンクアーズでさえなく、やはり、あっさり・スッキリ、口当たりが好く爽やかな労働者・職人のビール、バドワイザーの人っぽく、タイトルと相関している?

勝手に妄想していることではあるが、村上作品を評価しない方々の多くは、根っからアカデミックか、それに深いコンプレックスを抱いているかのどちらかに大別されるし、ありきたりのお酒では満足出来なくなった酒豪か、どんなアルコール飲料にも文句をつける、または体質として受け付けない下戸っぽいもんね。

どうも、そのあたりの“マジョリティを獲得し得る偉大なフツウさ”に、世界的な人気の秘密がありそうな気がして、大変参考になりました。

昔、近所のぼろアパートにいつも酒臭い大学生のお兄さんが住んでいて、「とにかく、吐くまで飲み続けろ、それを毎日繰り返せ。そうしないと酒の本質が視えて来ない」と言われたことがあったっけ。

あの人、面白かったなあ……しかし、そういうどろどろした“質=生まれる以前から予め設計されたかもしれないプログラム”が有する、これまで培った知識・経験を一撃で吹き飛ばすような危険性、衝撃、魅力、興味深さを小説に求める時代ではないみたいだと思いました。