開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

文学とは人間が「負ける」プロセスを描くもの

ネット上で、「小説家に求められる素質はなんでしょうか?」という質問にIT関係のライターの人が以下のように答えていた。

 

私の出した答えではありませんが、色川武大が「私の旧約聖書」という本でこんなことを書いてたので記憶から引用します。

> 文学とは人間が「負ける」プロセスを描くものだ

この一言に尽きると思います。人間が負ける姿を、安全圏から高みの見物をする、それが小説の本質なのだと。そして人間が負ける姿を、いかに魅力的に描けるか、それが小説家の資質であり、それを追求せずにおられないかどうかが小説家かどうかの分かれ目だと勝手に理解しています。

「負ける姿を魅力的に描くことで逆転勝ち」にする、これこそが旧約聖書の本質だと思います。勝った側はとうに忘れられているのに、負けた側の記憶が2000年も永らえているのですから、結果は明らかです。

逆に言えば勝ち戦を描くのは小説の仕事ではありません。したがって「島耕作」は小説にはなりえません。

冒頭の一言に出会ったのは私にとって幸いでした。おかげで小説の本質を捉えることができ、以後小説を読む必要がなくなりました。実際その後小説というものを読んでいません。無駄な時間を使わずに済んだことに感謝します。

 

ぼくは文学が弱い立場の人の味方になっていることを支持する者だが、勝ち負けでいうとやはり文学は「負ける」方を描いていると思う。

しかし、勝ちと負けは絶対的な区分ができない。勝つ時があれば負ける時もある。負ける悔しさをバネにして勝つのが多くのスポーツだ。失敗があるから成功もあるのはエジソンの例を出してよく語られている。ヒトラーも最後には負けた。

この回答者は、負けたら最後勝てないと思い込んでいるようだ。だから負ける姿を描いた小説を読むことを無駄な時間と考えるのだろう。しかし勝ち方も小説で教えていると思うのだが、勿体無いことをしている。色川武大の「私の旧約聖書」という本も批判的に読むべきで、それだけをありがたがるのは視野を狭くすることになると思う。