言葉を紡ぎ出す、という行為がある。おそらく誰でもできることなのだろうが、慣れないとできないことかもしれない。思いつくままに書き出すという、自動記述法というものがあったらしい。意識の流れが文学手法として注目された時代もあったらしい。今そういう難しいことは抜きにしてもっとカジュアルに生活に密着するように、言葉を内側から生み出してそれを目で見てみたい。
今度の読書会でガルーシア・ロルカの「ジプシー歌集」を取り上げる。初めて詩を取り上げて何をどんな風に感じたかを友人と交換するのである。そもそもそれが成り立つのかほとんど心許なく感じる。詩が書かれてあるフレーズは小説のように物語上の意味をそもそも持たない。ただ存在しているだけだ。それが詩の場合とても尊いことなのだというくらいの了解はある。ガルーシア・ロルカの「ジプシー歌集」の場合は、スペインという国土と歴史と、ジプシーという民族的というか人種的というか差別に近い難しい領域に踏み込む。それに偉大な詩人は容易には理解を近づけないから、意味のわからない語彙に山ほど出くわす。ほとんど謎に近いが、誇り高く蠱惑的でもあって、仲間扱いされると同時に突き放されもする。
詩とは全く社会や生活とは切れていて、自由だ。無意味で過酷でもある。谷川俊太郎は詩が音楽に近いと言ったが、翻訳で読む詩は絵画に近いと思った。ロルカの詩は幾分シュールレアリスムの絵画に近い。彼の同時代人は、サルバドール・ダリとルイス・ブニュエルであり、ロルカは二人と交流があったらしい。