開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

「界」の生み出し方

「界」が主観をベースにしているということは、主観では捉えられない死角のようなところに未来の変化をもたらす起動力の源泉がありそうだ。これまで65年間生きてきて思いつくことはやってきているだろうから、むしろやりたくなかったことの中にそれはあるはずだと考えられる。だがそれを過去の方へ求めてはいけない。すでに過去から断ち切れるために、未来を変えようとしているのだから。今現在の中で見つけるとしたらどうなるか?

それは何らかの強制を含む「界」を生み出すことだと思われる。例えば、ぼくが今やっていることの中に参考になることがある。それは公民館での読書会である。読書会では自分が絶対読まないだろう小説を読まなくてはならない。その強制を断ることもできるが、その時は読書会のメンバーをやめることになる。そうすると「界」からは離れることになる。今ぼくが求めていることは「界」の中での拡張や深化なのだから、それは予め封じられている。、、、「界」の中での強制にはどのようなことがあるだろうか?

ところで「社会」も自分との関係性の領域であることに、遅ればせながら気づく。社会人として強制されることは山ほどある。国民の義務もある。税金を払わなければならないし、戦争になれば従軍しなければならない。「国家」や「社会」と「界」との違いは、むしろ前者の離脱が後者と思われるが、現実にそれを行うと犯罪に問われるから、観念的に行うことになる。例えば、丸谷才一が「笹まくら」という小説を書いたように。小説は「界」の最も優れた形態かもしれないと今気づいた。

少し拡散しすぎたようだ。ぼくの場合は小さな「界」しか現実的ではないだろう。しかし、本質的には既存の支配環境から逃れる場が「界」であるに違いないことは確認できた。小さな具体的なことはまだ思いつかない。