開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

なぜ「界」に注目するのか

そもそも「界」という概念がなぜぼくに重要なものとして思いついたのかに話を戻そう。定年退職していわゆる「第二の人生」を同輩と同じようにスタートして、ぼくの場合はサラリーマンとなる前の学生時代に還ってみることにした。もう一度そこから「生き直してみようと」して自分と同世代の作家の小説の追体験を通して自分を見直してきた。確かに過去に自分の原点のようなものがあった。だがそこから未来に通じる現在の拠点は見出せずに、どんづまり状態になった。そのどん詰まりを打開する道が「界」を通じて新たな世界を見出すことだった。「界」が打開する光に見えたのだ。

「界」の中で何かを変えれば未来も変わると考えた。「界」の中には意識されたものと意識に現れなかったものがあり、後者を見つけてそれを新たに取り入れることで新たな未来が切り開かれるのではないかと推測した。その取り入れ方はおそらく強制力を持つものだろうとも推測された。強制してこなかったから現状の行き詰まりに至ったと考えられるからだ。

強制力と反対の極にあるのは、「好きなことをする」だろう。ある意味定年後は「好きなことをする」ことに決めていたような気がする。サラリーマン時代は好きなことができなかったからだ。

ここで新たに「好きなこと」という概念が登場してきたことに注意してみよう。好き嫌いとは主観の最も強力な根拠であるように思える。また好きなことはどんなに困難な状況に陥っても、それを打開して先に進むエネルギーを与えてくれる。つまり更新して継続していく自らの環境を作り出す条件の有力な一つなのだ。もしぼくの現在が本当にどん詰まりなら、定年後も「好きなこと」をしてこなかったことになる。あまりにも時間がありすぎて、好きなことをしていても充実感がないのだろうか?サラリーマンの時のように、強制された時間がほとんどであった中で「好きなこと」をすることに充実感があった、ということなのか? サラリーマンの時は社内外の競争環境に置かれていたので、自由な時間も「他者」に支配されていて心の底から自分の人生を歩いている(つまり「界」にいる)実感がなかった。それは今から分析すると、「資本主義」の現場にいたからだと言える。

ではふりだしに戻って、「資本主義」の現場から退いた現在を未来に開く「界」は何なのか? 今日は問題を少し整理して終わることにする。