求めるものが曖昧だったら得るものも曖昧なままだ。曖昧な質問には的を得た答えには到達しない。ぼくが求める「界」にも曖昧なところがたくさんある気がする。それは実体じゃないのだから目に見えないし、意識しないと感じられない関係性でもあるのだから土台曖昧なのは仕方がないといえば肯定せざるを得ない。だったら永遠に何かははっきり掴むことはできないということなのか?
「界」の一方は自分なのだから、結局は自分を変えることでしかないのかもしれない。しかしだったらことさら「界」などと言う必要もないわけだ。「界」は関係性だとしたら「結び目」はあるのではないか。関係性が糸のような線状のもので結ばれているとしたらということではあるが、比喩として使えそうでもある。ゆるく結ばれているか、しっかり結ばれているかとか、線状なのは単線か復線かなどと考えることはできる。
ぼくは自分の家族と結ばれている「界」はゆるいと感じている。テレビドラマ(ドラマばかりでなく取材ものでも)などで見る家族の風景は、結び目がかたいと感じるものが多く、それと比較すると自分はとても冷淡な男のような気がしてくることが多い。しかし考えてみるとドラマや番組は家族をテーマ化しているのだから、家族の絆に焦点が当たっているわけで、意識的にかたくなって当然なのだという気もする。焦点が当たると見えるものが多くなって密になり、あたかも通常でも関係性が濃いように錯覚するのではないだろうか?
「住めば都」という言葉がある。最初は馴染みがなくとも住み続けるうちに都のように豊かに感じられるという習性が人間にはあるのだろう。さて「界」という概念も使い続けていくうちに馴染んできて、よく見えるようになるかもしれない。今日は、繰り返し「界」に集中することが肝要であると結論づけておこう。