開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

文字は言葉の死である

言葉の芸術といえば文学と思っていたが、そもそも文学の文章は言葉の死んだものだということに、昨日あることから気づかされた。言葉は話されて誰かとコミュニケートされている時が生きている状態で、文章になって動かず固定化されてしまえば死んでいる状態だというのである。一度作家によって書かれた小説は、全て死んだ言葉の集まりになってしまう。そういえば、小説は作家が「書いた」ものであるから、全て過去なのだ。英文法で英語は時制に厳密な言語であると学ぶはずだが、ある英語教師は過去形は物語の時制だと説明していた。そういえばユーミンの曲に、「時はいつも親切な友達 過ぎていく昨日を物語に変える」という歌詞があって感心した記憶がある。

さて、どうしてこんなことを書いているかというと、「界」というのも無意識に文章形式の中で発想していることに思い至ったからだ。「界」についてぼくはこのブログ以外に誰にも「話して」いない。つまり「界」は死んだ形式でしか存在していないのだ。

「界」について誰かに話した時に言葉として、本当に生まれる(生き返るというべきか)のだ。そう思うと何かワクワクしてくるものがある。しかし誰かに話した途端に消えてしまうかもしれない。多分現状では「未熟児」なので「流産」してしまいそうな気がする。もっと栄養を与えて体内で育てなければならない。

でもどんな栄養があるのか? 多分言葉の中にあるはずで、文学でないとしたら音楽なのか、演劇なのか、映画なのか、はたまた美術・絵画まで探索する必要があるのだろうか? とにかく、これまで死んだ形式である文学や哲学の言葉で考えてきたそのことを見直す必要がありそうだ。