開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

小説を読むとは、死んだ言葉を蘇らせること

小説は死んだ言葉、つまり過去時制の物語の言葉で書かれていると昨日のブログに書いたが、そうすると読むことはその死んだ言葉を蘇らせることではないかと気づいた。また詩という文学形式も死んだ言葉で書かれているが、詩は朗読するという原初形態も持っている。朗読する時、まさに言葉を死から蘇らせているという言い方がピッタリ当てはまるように感じられる。

そのように文学は言葉の芸術だから、書かれたものは原理的にいって死とは親和性があるように思われる。そんな風に考えれば、村上春樹の小説に死者が多く登場するのも小説という言語形式に合っていると言えるのかもしれない。

さて、「界」についても書かれた言葉でしか発想してこなかったと昨日のブログに書いた。「界」という概念を使って、過去に眠っているほとんど無限の出来事から「蘇らせる事」があるのではないだろうか? そう考えるとやはりワクワクしてくるものがある。

最近友人との読書会で、ガルシーア・ロルカの「ジプシー歌集」を取り上げたのだが、集中して詩を詠んだため、この「蘇らせる」という行為を実感として受け止めることができたような気がする。ロルカの物語詩(ロマンセという形式らしい)は、古く南スペイン地方の民衆に伝えられている物語を幾分シュールに幻想的に現代に蘇らせている。「ジプシー歌集」は難解で知られてもいてとても数回の読みでは理解はできないが、ヨーロッパでは「悪の華」や「地獄の季節」ほどに広く人々に馴染んでいるそうなので、これからも手元に置いて繰り返し詠んでいきたいと思った。いずれぼくとの「界」も生まれるかもしれない。