開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

読書会でのトークにあるもの

毎月最終土曜日の午後1時30分から2時間程の読書会を街の公民館(最近リニューアルされて、「にぎわいの里」という名前になった)でやっている。ぼくが参加してから1年半くらい経つ。その間一回も欠席したことがない。新規加入者は「会長」をやらされるらしく、ぼくも1年猶予をもらって会長になった。公民館活動は野々市市生涯学習課の管轄になっているらしく、読書会は3団体あって、団体の会長は別にいらっしゃってずいぶん長くやられている。

前置きはこれぐらいにして、今日考えてみたいのは読書会という場で話され、メンバーの意見、感想の交流があることの意味についてである。小説という死んだ文字による空間を読むことで生き返らせ、その生き直しの経験を自分の言葉にして、読書会という親和的なメンバーの中でトークする、このサイクルで実際どのようなことが行われているのか考えてみたいのだ。なぜそう思ったかを話そうと思うとちょっと大袈裟になりそうな気がする。小説を読んで面白いと感じて自分の中で読書を蓄積していくことで、視野が広まったり感性の受容性が深くなったりということはあるだろう。でもそれは本当に起こっている事かというと主観の中の話であってとても心許ないものだ。主観からどう妥当性につなげていくかとなると、複数の主観が交流する場が必要になる。複数の主観の間で共通点や差異が見えてくる。それは民主的なプロセスではあるまいか、と壮大にふと考えてみたのだった。

それはさて置き、主体的な側面からと、場の現象という客体的な側面でそれぞれ考えてみよう。まず主体的な側面でいうと、読むと話すというサイクルと、聞くと話すの繰り返しサイクル、まとめと受容、共有というサイクルがあるように思える。一方客体的な側面では、作家が構築した小説空間が現代の読者によって再現されて、読者それぞれの読みの偏向を経て伝わるものがある。伝わったものはどんなものだったのかを複数の読者のトークによって、それぞれ自分の読みの確かさや違和感を吟味するような場を共有することになる。