今日書店に行って雑誌を立ち読みしていた。日本の隠れた哲学者を回顧する記事が掲載されていて、その中で主体の客体化という問題に目が止まった。ぼくらの学生時代に主体性論というのが思潮界の中心課題であった時期があった。よく「あんたの主体性はどこにあるの」と問い詰められたものだった。例えば今でいうと、「逃亡犯条例」改正案の撤回を求めた香港のデモについて、それを自分の問題として捉えてどういう態度をとるか、あんたの主体性を示せと迫られたりするわけだ。それは観光客にも適用するから観光目的で香港を訪れた時のあなたの問題にもなるが、どう?と。
主体性の哲学問題に戻る。近代の哲学では、主体と客体に分けて認識論を展開するのだが、認識主体は主体のままで客体を対象として分析などすると暗黙のうちに前提しているが、認識する主体も客体として対象になることが忘れられている、と書いてあった。認識している自分がどのように在るか(その認識に自分がどう影響を与えるか)意識だけじゃなく身体性も含めて考えないと実情に合わないということだ。いわゆる自分のことは棚に上げて何かを考えたり言ったりできないということだ。
そのことが何か今の自分に響くものがあって、幾分気分が落ち込んできていて、今何が気分を落ち込ませたのかブログに書いて考えてみようとしたわけだ。なんとなく感じるのは、偉そうなことをお前は色々ブログに書いたりしているが、一体お前はどういう人間なんだという声だ。自分という人間を認識の対象として徹底的に分析してみる必要があるぞ、という声がする。とにかく今のお前は何にも仕事をしていない、まだ働けるのに遊んでばかりいる無用の人間だ、という声がする。
そうだ、今のぼくは本を読むことしかしていない。