学生時代にこれはいずれ読んでおくべきだと思って、せっせと買い込んだ本が就職してしまうといつまでも読まれずに本棚に眠り続けているままになっていたのがかなりある。
それでも定年後何冊かは「消化」している。例えば、野間宏「青年の環」、加賀乙彦「炎都」や、ジェイムス・ジョイス「ユリシーズ」やサルトル「嘔吐」「自由への道」、フローベール「ボヴァリー夫人」やバルザック「谷間の百合」、ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」や、カフカ「審判」、ロルカ「ジプシー歌集」などだ。詩集や一部の中編を除いて長編ばかりで、サラリーマンの間は読めなかった。まだ「消化」していない長編の代表的なものは、プルースト「失われた時を求めて」、ムジール「特性のない男」、埴谷雄高「死霊」、辻邦生「春の戴冠」、ガルシア・マルケス「100年の孤独」、ダンテ「神曲」、ロマン・ロラン「魅せられた魂」、ゲーテ「ファウスト」、ボードレール全集、ロートレアモン全集、三島由紀夫「豊饒の海」、野上弥生子「迷路」、柳美里「8月の果て」などである。これらは手をつけたものの途中で中断したまま放置されている。最近、三島由紀夫「豊饒の海」は二度目の「消化」に着手している。これは今自分を変えようとしている流れの中に、一つの疑似体験プログラムとして入れている。
さてこれらの読書は孤独な営みなのに対して、読書会で課題本として取り上げられた小説もある。最近では井上ひさしの「唐来参和」や、朝井まかて「早々不一」がある。井上ひさしの「唐来参和」はすぐ読めて、唸ってしまうほど面白くて作者の手腕に感心した。戯作者と元花魁の夫婦の人情物語なのだが読んで面白かっただけで、自分が関わった感じがなかった。今の自分にとっての「出会いの場」を提供してくれる小説ではなかったということだ。読書会の仲間と例会の後の雑談で、ぼくの読み方を喋っていたら、「藤井さんは小説の中に入るんですね」と言われた。「中に入る」以外の読み方があるのかと後になって、それが何だろうとぼんやり考えることになった。大概の人は「外」にいて読むらしい、、、