開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

原田マハについて

原田マハの芸術観(美術鑑識)については、昨日のブログで評価を改めると書いたが、小説家としての評価については判断できないでいた。その評価というのはあくまで個人的な基準であって、ぼくの中で読むに値するかどうかを決めるものに過ぎない。何しろ読むべき小説は古今東西無限と言ってもよく、人生は有限だからだ。原田マハの小説は「ジヴェルニーの食卓」と「中断された展覧会の記憶」と「暗幕のゲルニカ」を読んだに過ぎない。この3作で評価を決めるのは早計かもしれない。ただ客観的な評価は評論家でもないのだから必要ない。ぼくが文学に対して与えている評価基準に照らして、それはつまり「生きる糧になるかどうか」というものだが、この3作でぼくはその手応えを感じることができなかった。1番の問題点は彼女が美術の学芸員という職業的観点から小説を書いていることだ。職業が前提になっている世界から現実を描こうとしていることだ。それは小説家という立脚点ではないことだ。原田マハ学芸員としては本物だが、小説家としては疑問符がつく。

文学の支え手は、どちらかというと職業に自分を100%同一化できずに自分が何者かに悩み続ける「不適合者」か、職業につくことすら馴染めない生きづらさを抱える人たちだと思う。職業にうまく自分を適合させて世間的にも成功している人は、そもそも文学には向かわないと思う。

さて、村上春樹には「職業としての小説家」という本がある。彼は小説家を職業として見ているのだろうか?村上春樹については確かに生きる糧を与えてくれるが、小説家を職業として考えているとしたら、カフカ賞は獲れてもノーベル賞は獲れない遠因になっているかもしれない。