開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

定年後の研究テーマ

今朝まだ暗いうちの4時半に起き出した。放送大学の放送が始まる6時45分までにはかなり時間がある。今朝はこれにしようと「ヘミングウェイで学ぶ英文法」を持ってリビングに降りていく。この本は、表紙に柴田元幸の「文法をみっちり学ぶことと、小説を楽しむことは、実はひとつである」という一文が帯につけられている。この一文が目に入らなかったら購入しなかった。

今日は「Cat in the Rain」の読みどころを文法を交えて徹底解説してある箇所を精読した。ヘミングウェイは奥さんとうまくいかなかっただろうことがよく窺われる内容だった。

それはさておき今日書きたかったのは、自分自身の研究テーマらしきものが浮かんだことについてだ。定年後の趣味のレベルを超えるものではないのだが、それでも何か研究するものがあると生きがいになると思い続けていたように思う。それは最近加藤典洋の「日本の無思想」を読んだことが影響していると感じる。加藤は日本人のタテマエとホンネという言葉のまやかしについて、独特の感性で追求していた。

ぼくはかねてから、いじめ問題で加害者側の非があまり問われることなく、被害者の対処法の方が問われることに疑問を抱いていた。悪いのは加害者なのに被害者の方が悪いような話の展開に、何か独特の同調圧力のようなものを感じるのはなぜだろうと思っていた。(最近は加害者も問われるようになって来てはいるが)

ともすると弱い者を助けるよりは、強い者の方につく(あるいは下の者を無意識に見下す)傾向が多く感じられる。ぼくは基本的にその空気が我慢ならない。強い者につこうとする弱さや狡さが人間として惨めっぽくて大嫌いなのである。

最近、首相の桜を見る会が追求されているが、追求する野党の方を非難するコメントをたまたまFM神戸の番組のパーソナリティがしていたのを耳にした。悪いのは税金を好きなように使う主催者側なのにどういう仕掛けで逆転するのか、そこに似たような匂いを感じるのである。それは日本人独特なのかもしれないと思って、研究してみたいと思った、ということを忘れないように書き留めておきたい。