純文学が終わったということが言われているらしいが、あまりそういう気がしない。誰からも見向きもされないとしても別にぼくは困らないし、純文学やっている人は勝手にやっているのだから何?という感じだと思う。仮に今よりどんどん読者がいなくなったり、本が売れなくなっても希少価値は逆に増すだろう。資本主義は希少価値を生むシステムだからだ。そんなことは別にして、純文学でしか表し得ないことについて考えてみたい。
昨日まで直木賞受賞の「等伯」を読んでいたのだが、直木賞は純文学を対象にしていない。厳密に純文学と時代小説や大衆小説の違いを定義することは今では難しくなってきていると思う。ぼくが思うに、作者と作品の関係に違いがある気がする。純文学の作者は自分が作品の中にいるのに対して、大衆小説などの作者は自分は外にいていわば客観的に書いていると思う。カフカや村上春樹はある程度状況設定を書いてしまうと、自分がその状況の中に入って生き始めると言っている。だから書いているときは結末がどうなるか分からないのだ。時代小説はそうはいかない、結末は史実にある通りになければならないし、大衆小説の場合は大衆が支持してくれる結末に持っていかなければならない。(大衆を裏切る展開もあるだろうが、その裏切りが流石と思わせなければならない。)
「等伯」の場合は、「等伯は自分だ」と作者の安倍龍太郎が言っていることから、等伯の中に自分を投入して私小説にように書けてるのかもしれない。確かに絵師である等伯があれだけ激しい気性なのは、作者が入り込んでいるからかもしれない。史実に忠実なところを押さえて、膨大な歴史の闇部分を作者はある程度自由に創作できることは確かだ。だから純文学的なところは当然あるわけで、全然別物として区別する必要性もないわけだ。ただ制約の自由さは純文学の方にあるし、ぼくはこの自由さは文学でしか表し得ない自由さがあると思う。その自由の中での読むという経験は、現実に生きる時の参考になるとぼくは思っている。