開界録2019

The time I retired from jobs is the period reviewing and comprehending my past life.

小説の主人公に自分を見る

昨日、小説を読むのが馬鹿らしくなったと投稿したが、振り返ってみると村上龍の小説に出てくる登場人物と自分に共通するところがなかったことが原因だったと思える。今日、三島由紀夫の「金閣寺」を読んでいて主人公の溝口少年と共通するところがあって、この小説には読むだけの興味を持った。その部分というのは、叔父のところに住むことになって叔父の家の2軒隣に有為子という美少女がいて、彼女を暗闇で待ち伏せするシーンがある。その時、「私には、外部というものとあまり無縁に暮らしてきたために、ひとたび外界へ飛び込めば、すべてが容易になり、可能になるような幻想があった。」と書かれてあった。

この外部と外界に対して内向的な少年が陥りがちな幻想という部分が、ぼくにもあったなと感じた。内部にばかり拘い勝ちになるために外のことが遠くに退いて、外に飛び出す決断さえすれば上手くいくと錯覚する精神構造がぼくの少年時代にもあった。今書いていて気づいたが、これってかつて日本が開戦するときの奇襲作戦に似ている気がした。明らかに形勢不利な状況で勝つにはこれしかないと思い込む精神構造にどこか通じないだろうか?

このように小説を読んで考えることは、考えるpracticeになるので馬鹿らしい行為にはならないのではないだろうか?