小説を読む楽しみを捨てたら何が始まるだろう? 定年後4年余りずっと長編小説を読んできた。「ジャン・クリストフ」の再読、ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」、サルトルの「自由への道」、野間宏の「青年の環」、加賀乙彦の「永遠の都」、ジェイムス・ジョイスの「ユリシーズ」、福永武彦「死の島」、村上春樹「1Q84」などがそうだ。今から思うとその読書期間中は、何にも代えがたいような不思議な体験感覚がある。どこか現実と小説空間とが入り混じったような混沌世界に、熱病にかかったように苦しい旅を続けていたような感じがする。やっぱりいいものだった。しかし最近はそこまでの長編は読んでない。ひょっとすると野々市市の読書会のメンバーになってからかもしれない。どうしても環境に影響されるのだろうか?
このブログを書き始める時には、小説読みを捨てて新しいことを始めるきっかけを作ろうと思っていた。何かを始めるときは古いものを破壊する必要があるから。ところが小説でも長編は別物のような気がする。こちらの覚悟を要求するからだ。並みの生活態度では読み通せなかった気がする。作者の創作態度はそれ以上であることは確かだ。作家の方が無から有を作り上げるからだ。やはりまだ余力があるうちに長編小説は読まなければならない。プルーストとショーロホフ、紫式部と埴谷雄高が残っている。