突き詰めると自分のことしか分からないし、言及すべきではない。自分の守備範囲でしか何事もいうべきではないと思っている。それを踏まえた上で、小説の必要性を言い当ててみたい。小説を読むことでぼくは解放された気分でいられる。所詮絵空事だという了解が底辺にあるからこそ無責任でいられる。小説家の方は責任がつきまとうのかもしれないが、何を書いても罰せられることはない。犯罪者を主人公にして描いても作品になる。だから小説内で作家は犯罪者になることができる。現実に起こった事件の犯人に共感して自分はその犯人だと小説内で主張することもできる。老婆殺しのラスコーリニコフを主人公に描いたドストエフスキーや、金閣寺放火の犯人を一人称で描いた三島由紀夫(ついでに、赤軍派を描いたと思われる「洪水は我が魂に及び」を書いた大江健三郎)のように。小説内では全てが許されるように見える。それが自由を保証する。その自由の世界を知っていて、いつでも入ることができるというだけでぼくには得難い救いになる。誰かを殺すことを考えることまでは自由なのだ、という了解があることは救いになる。安楽死が合法となることで、自殺を思い止まったオランダの女性アスリートがいたが、それとどこか似たものがあるような気がする。