どんな人間も自分の中に強者と弱者を持っている。誰かだけが一方的に強者であることはなく、弱者の部分がどこかにあり、他方一方的に弱者であることもないと考える。独裁国家の権力者は一方的に強者と思われるかもしれないが、地球上には民主国家もあり、現在は国家間の力のバランスで「平和」が保たれている。権力者のことをいうつもりはなかった。自分の中にとても小さいが、強者の部分を見出して、強者とはどんな状態のことなのかを考えてみたいと思った。きっかけは友人二人を思いがけず、弱いところを複数の友人たちの前で指摘したことにある。彼らは当然のごとくプライドがあり、ただ運動能力やスキルを必要とするゲームにおいてぼくの方が上回っている状況で、ぼくにとって当たり前のことが、彼らのプライドを傷つけてしまったのだ。ぼくには簡単なことが彼らには思うようにはいかないということが、スポーツゲームにはある。
ぼくはそのゲームで何が必要なスキルで、そのスキルを身につけるためにかなりの時間をつぎ込んでいるのに対して、彼らは特にそのための練習をしているとは思えない。しかしその練習の差は見えないのだと思う。音楽や絵画や芸能やスポーツなど、術や技の世界では才能や努力の差が歴然と現れる。どうしても序列ができてしまうのだ。才能といってしまうとそこにどんなことがあるのか見えにくくなってしまうが、はっきりしているのはその術を身につけることが楽しくて仕方がないということだ。いや初期においては苦痛かもしれないが、時には不甲斐ない自分を叩きのめしたいくらいになるが、諦めきれず続けているとうまくいくこともあって、その時の快感は全身を貫く感じがする。もう一つ言えるのは、その術とか技について何でも知っていてやたら細かくて微妙なことにもリアル感を持っているということだ。それは経験知というものかもしれない。経験値の多さが序列を作っているかもしれない。
今、芸術とかスポーツの世界で序列ができるのを考えてみたが、それはほとんど全ての世界で言えることなのかもしれないと気づいた。スポーツの一分野でそれもぼくの友人たちの10人くらいの世界のことにすぎない話を普遍化してはいけない。彼ら二人も別の世界では強者であると思う。それを知らないだけのことだ。