ぼくは定年になってから会社との繋がりがなくなったので、会社以外の交流の場を持ちたいとそのことを一番の目標にしていた。テニスの同好会は会社員時代から会社以外の交流の場を持ち得ていた。今もテニスを週一回以上は続けていて、その人たちとは家族的な付き合いをしている。ただその人たちにはこのブログのことは伝えていないし、書いている内容にあまり共通点がないことが多い。どちらかというと文学趣味とは縁遠い方の人たちだ。文学趣味の人たちは定年になってから、地元の文化サークルを探して参加するようになり、女性の多い集まりではあるが同じ趣味で繋がることの楽しさを味わっている。参加して2年経ってその読書会グループの会長をやらされることになって、会員全員の連絡先を知ることになって今では時々携帯のメールでやり取りするようになっている。今日は、今企画中の能登への文学散歩が例のコロナウィルス感染で中止とすべきかで相談のメールのやり取りをした。電話じゃなくてメールの文字によるコミュニケーションが文学趣味の我々にはいい感じなのである。電話だと相手との距離が近すぎる感じがする。もともと内向的な人が集まりやすい読書会なので、お互いに気心が知れやすい面があって仲間意識ができやすいと思っている。だから、言葉少ないメールにもとても親密になれる。家に閉じこもってばかりいる最近は特にメールがありがたく感じる。
さて、このブログにも現在150人の読者の方がいる。数人の方とは以前コメントのやり取りが成立したことがある。全く面識がないので、親密な交流は無理であるのは仕方ないが、文学趣味の傾向が似た方と交流できたらと思うのだが、純文学はブログでは少数派みたいだ。
今、鴻巣友季子の「謎解き『風と共に去りぬ』」を読んでいるが、自分で翻訳してみてこれまでの『風と共に去りぬ』のイメージと解釈が自分と大きく隔たっていることに驚いたと書かれている。鴻巣友季子の翻訳の確かさと深さに感心させられているぼくは、鴻巣友季子の解釈が作者マーガレット・ミッチェルに誰よりも近づいていることと思っている。改めて時と国を超えて、英文で書かれた物語を通じて作家と翻訳家の思いが一つになることの僥倖を感じる。