ぼくはこのブログで書きたいと思ったことをその都度書いてきた。書くのはあまり苦にはならないでスラスラ書けるのだけれど、話すとなると急に何を話していいか分からなくなる。それは話す相手が自分の目の前にいるからではないだろうか?一体あなたは誰?どうしてぼくの前にいるの?ぼくに何か用があるのかい?なんでぼくは君と話さなくちゃならないんだ?いつまでも君が話さないなら、ぼくも話さないから。じゃあ、君が話さないとしてぼくが何か話すと仮定して、話をしてみよう。そう思って書き始めたのだから、、、さて、ここまで書いてきて、これは話しているんじゃないかという気がしてきた。そうだ、書くようにして話せば、いや間違った。話すように書けば話していることになるような気がする。君はどう思う?実を言えば、実際は、書くことと話すことは別のことだけれど、形式がいくらか違ってはいるが、内容は同じことを表現しようとしているのじゃないだろうか?どちらが自由かと言えば圧倒的に書く方だろう。何と言っても言えないことを書くことができるから。いや、また話を大きくするぼくの悪い癖が出てしまった。自由、自由とカッコつけてんじゃねえよ。そうだね。別に自由について話したかったわけじゃない。何を話したかったか、それは、、、ぼくはなぜ話をすることが苦手で、できたらずっと話をしないで済ませたいと思うのか、ということなんだ。話には何か強制力に促されるような感じがある。沈黙の強制力だ。話の場では沈黙が許されない。もしテレビの司会者に話を向けられたら、瞬時に話始めなければならない。話の内容は場の空気を読んで相応しいコンテンツを求められ、視聴者に分かりやすいように淀みなく最後まで続け、あまり長くならないように結論を述べなければならない。そんな芸当はぼくには不可能だ。
昔ぼくがサラリーマンだった頃、職場で毎朝朝礼があり社員は順番に3分間スピーチをしなければならなかった。三週間に一回は回ってきてたと思う。もう少しで順番が回って来そうな頃になると、だんだんに憂鬱におそわれてくる。まともな話ができないと当然恥をかく事になる。話ができないと仕事もできないと思われる。38年間サラリーマンをやって来たけど、話が苦手ということはあまり改善されなかった。ぼくがとった方法は原稿を書いてそれを思い出して喋ることだった。その時に話すように書くことを覚えたのかもしれない。書いたことをそのままなぞるように話せばいいことに気付いた時は救われた気がしたものだ。今思いついたが、このブログもサラリーマンの時の朝礼のように書いていけばどうだろう。このはてなブログの空気を読んで、話すように書く、朝礼のように。