開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

I spend most of my free time thinking.

年金生活者の今は、働かなくても生存していける。特別に明日を心配する必要もない。何にもしなければ時間が余った状態になる。ただ意識は休む間も無く働きつづける。意識は体が睡眠状態で休んでいるときも働いている。働いて夢を見ている。意識には指向性があるという事をフッサールという哲学者が発見したらしい。指向性があるから休めないのだろう。意識の「さが」で、生命がある限り動き続けなければならない。そんな事を言えば肉体のほとんどの器官は働き続けなければならない。ということは人間は基本的に動きつづけるものであるということだ。本来、家の中に居続けてじっとしていることができないようにできている、ということだ。しかし、家の中でも監獄でも最低限の動作はできて、全く動かないでいるわけではない。

さて意識の方に戻ろう。意識自身を意識することはできるので、意識がどんなものかを考えることができるのだが、考えるという働きは意識でできている。考えるという働きを認識という概念に置きかえよう。意識がどんなものかでとにかくできている様子を存在という概念で置きかえよう。そうすると意識には認識論と存在論ができることになる。指向性というのは存在の属性だ。それでは認識は何のためにあるのだろうか?存在がどのようなものであるかを解明するため、という答えが考えられる。それ以外にはないのだろうか?何でも認識の対象になるはずだ。どんなことでも考えられるからだ。対象には形がありそうだ。しかし無限も対象になる。数学になると虚数という領域も対象になる。何でも対象になるが、どんな対象にも共通するものがある。それが存在である。在るという在り方や、無いという在り方はそれぞれどんな構造になって、どのように働いているのだろうか?一つだけ確かなことは全て意識で繋がっていることだ。それは一体どういう事を人間に告げているのだろうか?