ああ、思い出したぞ。自分の昔のブログを読み返していて、こんなにまで君に応答したのを忘れていたのが分かり、遅くなって、ごめん。文学って何かにもっと応えなくちゃいけなかったんだね。でも文学とは何かの全体に応えることは今でもできない。ただその一つにはなりそうな答えが浮かんできた。それは失ったものを再生して言葉で再現して、自分を全力で対決させることで、それに対する供養をする行為、というものだ。時間を過去に戻し、つまり時間を(現在と過去における現在に)二重化し、過去に残された者と残してしまった者との和解を何とか作り上げようとする創造行為だ。作者は書くことにおいて何かを達成しようとするはずで、それは深いところで作者の過去の過ちの体験に根差しているはずだ。そうでなければ、あんな苦行をやろうとは思わないと思う。読者の方は作品を読むことで、その供養に立ち会うか、自らの体験のように感情移入しながらその供養をする。サルトルは作者と読者は対等の立場で作品を共同で創造していると言っている。作家が書いたものは読者が読むことで初めて再生される。書かれた言葉はそういう運命なのだ。ところでこれで君への応答になっているだろうか?
過ちは誰にでもある。ぼくにもあるし、君にもあるだろう。現実には取り返しがつかなくてどうしようもないことを作家は文学を通して解決(供養)を図ろうとする。自分と似たような過ちをした作家の作品に出会えて、読む僥倖に恵まれたらどんなにいいことだろうね。