ぼくは以前のブログで、サルトルを哲学的に何も新しいものはないと断罪した苫野一徳氏を批判したことがある。
ぼくがサルトルに見出したものは、「自由な人間が歴史的存在に至る過程を自覚的に示そうとした」ことだった。サルトルもボーヴォアールもブルジョアジーとプロレタリアート(両方とも歴史概念として使用)の対立が歴史を作ってきたことを認めている。現在も本質的にはこの対立が支配対被支配の構図を作っている。現在でも歴史の主体となるにはプロレタリアートがどのような自覚過程を経て、人間を資本主義から解放するのかが問われ続けていると思う。今日改めて以前のブログを再掲載した理由は、現在のぼくが彷徨い始めていることから自身を救おうと考えたからだ。ぼくが一番しっかり立っていた時点に戻る必要を感じたからだ。どうやって歴史を内面化するかをしばし忘れかけていたと思う。
(ちなみに、村上春樹もビートルズもプロレタリアートを歴史的現代に更新したのだとぼくは思っている。)
We were the first working-class singers that stayed