難解な哲学で知られるサルトル哲学を追体験できた研究者竹内芳郎を師と仰ぐ、ブロガーKazoh氏のサイトから引用させていただいた。ぼくとしては長年待ちわびた出会いであった。(以前、竹内芳郎の吉本隆明批判で「吉本隆明への公開状」への共感としてこのサイトを知ってはいたが、サルトル哲学の見事な要約を読み取る力がなかった。)
【<対他存在>の受容による<自己脱出>:人間の自由の輝ける瞬間】
ところが、この瞬間(他者への私の現前_引用者注)においてこそ彼の実存的自由の真の冒険がはじまるのであって、サルトル的自由の真のあたらしさは、このような<他者地獄>を脱するのに、己れの自由の否定としての<対他存在>をかえって敢然として受容し、この受容をもって<自己脱出>・<自己変革>の契機にまで高め、この自己変革のなかにこそ人間の自由のもっとも輝かしい、もっとも感動的な<瞬間>を見てとったところにある。実際、彼の目からするとき、<もっとも自己的な自己への還帰>とか<自己自身への誠実>とかいう近代の自我主義的モラルほど欺瞞的なものはなく、それは実は人間を物に、自由存在を非自由存在にちかづけること以外の何ものでもなく――事実、物くらい自己自身に誠実なものはあるまいから――、これにたいして人間の真の自由は、かつてあった自己をのりこえて未来にむかってあたらしい自己を創造するところにあり、だからこそ彼の主張する時間性では、ベルグソンの<持続>とは逆につねに脱自性が強調されていたのである。【詐術の弁証法:人間関係の根源的な<相剋>性を自己変革に転化する論理】
ただ、人間はみずからの意志の力で自己の存在仕方を根柢から変革することはとうてい不可能であって、この自己変革にもっとも有力なものは、皮肉なことにかえって己れを物のように化石化する他者の冷酷なメドゥーサのまなざしであり、このまなざしによって生まれた化石化された私をそれにもかかわらず素直に受容し、受容という私の自由な投企のなかにその化石化された私を解消せしめるのに成功したとき、ここに自己脱出・自己変革としての人間の真の自由が輝き出るのである。この操作は、人間関係の根源的な<相剋>性に目を覆って自他の自由を尊重し合うなどという欺瞞的な人格主義的モラルとは何の共通点もなく、むしろこの<相剋>をはっきりと見とどけ、それをかえって自由な自己変革の契機にまで転換させる詐術の弁証法であって、こういう操作は、人間関係のもっとも深い層まで見きわめていたドストィエフスキーの小説にはいくつも実例を見出すことができるし、また、精神分析の治療にあたって医者は無意識にもこれを実行しているのだ。
(なぜこの部分を引用させてもらったのかについては、「他者の冷酷なメドゥーサのまなざし」の強制がなければ人間は変われないと深く思い知らされたからです。)