開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

人間を人間として扱うマルクス主義

なぜ資本主義では鬱やコミュニケーション障害の人が増える傾向になるかといえば、人間をモノのように扱うからだ。ぼくの38年間のサラリーマン生活でも今から思うと、誰もが当然のように人をモノとして扱ってきたと思う。それは「使う」という言葉を使うからだ。社長はどうやって社員を使おうかと考えているのだ。上司は部下をどううまく使おうかをいつも考えている。企業を存続させるためには利益を出し続けなければならず、売り上げを増やすか、経費を減らすかしなければならない。それは時系列で目標化される。その目標には達成する手段がいる。そこで全ての社員は手段になる。動かされるモノになるのだ。企業の場合、最終的には人より利益の方が大事になる。企業のために人を切るのは当然のことなのだ。人のために企業という成り立ちが必要なのではなく、企業のために人が必要なのだ。だから社員の幸せなどは企業が成長するために二次的に必要なだけだ。これを根本的に逆転して、社員の幸福のために企業があることに戻す理論がマルクス主義だと言えないこともない。極端に単純化すればそうなるはずだ。

ところがマルクス主義を実現しようとすると、マルクス主義者も人をモノと考えているのである。戦前の共産党員の転向、非転向を批判した吉本隆明氏によってそのことが明るみになった。ちょっと話を極端にしてしまったが、本来のマルクス主義においてはマルクス主義者の人間関係は、モノではなく生身の血の通った温かな、思いやりのある人間関係であるはずだということを言いたかった。そして今から思うとぼくが学生の頃接したマルクス主義者の人たちも、めちゃめちゃ温かかったのを思い出した。