村上春樹にとって「直子」という恋人の自死が、自分の生きる根幹を奪うほどの喪失をもたらしたことは容易に想像できる。闘いとはまず自分自身がまともに生きていけるようになるために、直子を生き返らせて対峙するために作家になることだった。その決意は作家になるしか道はない、というようなちょっとした才能にしがみつく多くの作家志望の若者とは決意の質が違う。文学という形式とそれを支える人間の層を確かめるために、最初の「風の歌を聴け」を群像に出して専門家の反応を試した。そのための技巧を総動員して「嘘をつく」芸術に自分の人生を託すだけの価値があるか賭けをしたのだ。ただし自分の能力に過信はしないだけの文学通の眼は持っている。村上春樹にとっての直子は、フィッツジェラルド(ギャツビー)にとってのデイジーだ。男の一生を賭けても求めたいものは恋人なのか?それは幸福か不幸をもたらす人生ゲームなのか?ぼくはそこでためらう。何か公共の財産に結びつくような成果は生み出さないのだろうか?文学にそれを求めてはいけないのだろうか?いや、文学という公共財に既になっている。