開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

村上春樹の暗い部分

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今日はいつもと違う気持ちでこのブログに臨んでいる。誰も身の回りの知り合いのいない場所で何か書きつけたい気持ちは変わらないが、何か裡に蓄積しているものを吐き出したいのではなく、これまでの自分に向き合い反省というか、もう少し強めの懺悔の気持ちが入ったものになりそうだ。これにはもちろん原因があるが、それを分析する前に何かうまい書き出しがあるような気がする。分析すると今の自分の状態から離れてしまう。今の状態のままに記述する、意識の流れのような文を書いてみたいのだ。さて、今日目覚めのまどろみの中で何か気になっていることがあるのが徐々に感じられてきた。それを突き止めるのに時間がかかった。そうだ、一昨日読んだ「色彩を持たない、多崎つくると彼の巡礼の年」の読後感が引っかかっている。村上春樹の多くの読者と同じように謎に捕まってなかなか離れられない、という軽い病気に。この小説は5年前に1回読んでいて最近急に惹きつけられるようにまた読みたくなった。その時ぼくは自分の高校時代の自分がクラスのみんなからどういう風に思われていたのか、追想していた。自分の客観というもの、自分では当時気づけなかった自分の外側に関心が向いていた。今の自分がこのような状態なのも、そのころに取った行動に起因することが多いように感じられていたからだ。この小説は主人公を含めた高校生5人の仲良しグループの物語になっていたのを思い出して再読したくなった。ぼくには多崎ほどの仲良しグループはなかったが、クラスの仲間との高校生らしい一体感はあったように思う。あの一体感は受験を経て大学進学組と少数だが就職組に別れて卒業することが運命づけられているので、初めから壊れることが分かっている。小説の5人もいずれ別れるのは分かっていたはずだが、グループの結びつきはかなり強かったことが悲劇を生んでいくことになる。大江健三郎もそうだが、村上春樹の強すぎる性エレルギーには凡人のぼくにはついていけないところがあるが、悲劇の原因は多崎つくると白根柚木と黒埜恵理の三角関係にあり、多崎つくるの「巡礼」には灰田と沙羅という人物が絡んでくる。いずれも多崎つくるの性エレルギーによって結び付けられている。だがそれは彼の小説ではいつものことであり、いつもと違うのはこの小説は推理小説になっていることだ。どうしても話の内容から「ノルウェイの森」と比べたくなるが、「ノルウェイの森」はリアリズム小説だとされている。なぜ、「色彩を持たない、多崎つくると彼の巡礼の年」が推理小説だと断定できるかといえば、ネット上にこの小説の書評を載せている古上織 蛍という人の説に納得させられたのと、小説中に緑川という人物が自分の死期が迫って死に場所を探して旅に出ているときに、読んでいた本がミステリーばかりだったとわざわざ書いていたからだった。古上織氏が言うには、推理小説には犯人がいることが前提で書くものであり、たとえ作中に犯人が特定されなくても作者には特定されているわけで、この小説の場合の白根柚木を殺した犯人は、彼女の父だと言うのである。それ以外に作中では犯人を辿れないように書かれている。父が娘をレイプして殺した設定にしているのだ。高校生3人の三角関係のもつれの裏側に親子のレイプ殺人を設定している、、、こんな小説を村上春樹が書いたという事実が、これまでどちらかといえば彼を支持する側だったぼくを苦しめることになった。そして小説読みに自分の支えを見出すほどの深さを求めてきた、幾らかは文学通を誇っていた自信が砕けようとしている。「ノルウェイの森」の直子の死はキズキの死のショックからのものでリアリズムなのに対して、「色彩を持たない、多崎つくると彼の巡礼の年」の柚木の死は反道徳的な肉親のレイプなのだ。おそらく直子と同類の柚木をそのように(小説だとしても)設定してもいいものだろうか?村上春樹は直子のモデルとなる実在した女性の死が忘れられず、なんども自分の小説に登場させているのに、そのように殺すことに人間としての愛情の質に違和感を覚える。結局はぼくは彼の愛情を信じて読み進めてきたのだ。小説中の沙羅がつくるに、あなたは自分が思っているほど単純な人ではないわ。正反対の自分が同時にいる、と言わせている。ただしその沙羅は柚木の姉で、父と思われる男を恋人にしていると古上織氏は言うのだがそれをも推理小説としてはありなのだ。どうしようか、これまでのぼくの小説読みを改めるべきか、、、