社長からの言葉での攻撃と昨日書いたのは、社長と当時のぼくとの関係性がどのようなものであったかによって、攻撃の捉え方に影響してくる。常識的な関係で見れば企業トップと一社員の関係は、経営者と従業員との関係性になるが、あの場面では人と人の関係としても見る必要があると思える。今から振り返ると、一種のマウンティングのようにも思える。ワシはお前と違って人間の格が違うのだ。お前はワシの使用人であって使用人としての身分をわきまえよ、という意味に解釈できた。実際に言ったことは一般的に会社員としての常識的な規則のようなこと、例えば遅刻はするなみたいなことであった。でも言うタイミングと言葉の使い方によっては、もし相手が精神的に敏感すぎるような性格の持ち主だったら、「言葉で人を殺す」ということも現実性を帯びるだろう。ぼくの場合は、入社した当初は歓迎されてたこともあって社長と従業員の関係以上の人間関係が続いていた。実際大学ではデザインを経営に生かすCI手法というものを学んでいて、それを話して欲しいから今度の日曜日自宅に来てくれないかと言われてもいた。それが専務の耳に入り、やめさせられたことがあった。ほとんど身内一族が経営している小さい会社なので、そういうこともあり得たのである。
ところであの一件はいつ頃だったのかそれは客観的にわかるはずだ。まず、いつをはっきりさせておく必要がある。時間的に出来事の前後を間違えると辻褄が合わなくなり、思い違いをしているかもしれない。調べてみると44歳で、1997年ということだった。もう入社してから20年以上も経っていることになる。こんな歳になっているということは、以前社長がぼくを部長までにはさせてやると言っていた、そのような時期に当たる。ということは、あの当時は自分が使用人の立場に過ぎないと思い知らせるというよりは、部長としての資格がないという意図の方が現実味があるように思える。そういえば中途採用の、ぼくより5歳ぐらい下の男を部長にしようとしていた頃になる。ぼくと競争させようとした相手の男だ。ぼくを彼と比べて出世意欲のないことで失格だと事前に自覚させ、彼を部長にさせることで文句が出ることを封じておこうとしたのかもしれない。それは推測で確かめようもないが受けた傷は確かで、あの言葉はあとでじわりじわりと来る感じで、グサっと来たわけではなかった。敏感な人だったらグサリと来るのかもしれないが、それこそ今のコロナウィルスのようにぼくの心に侵入してゆっくり犯して行く感じだった。四、五日して全身から力が抜けていって、何も考えずとにかくいつもの習慣に自分を強制的に乗せることだけを考えて乗り切ろうとした。今の企業で皆勤賞というものがあるのか分からないが、当時その会社では皆勤賞があってぼくはその年だけもらった。