開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

哲学は人間の本質に住むことを教えてくれる

以前書いたブログ「サラリーマンは社畜か? でライバルとの競争から降りてからぼくの転落が始まったと書いたが、その結果は定年まで屈辱にいかに耐えるかという、自分との闘いになった。ライバルだった年下の彼は後になって2年間くらい、ぼくの上司になったことがある。競争から降りるとそういう社内環境に追い込まれるということが分かった。彼はその1年目の時やはりマウンティングをやった。彼が取り仕切る部門会議で、会議が始まる前に会議室から自分の席にぼくをタバコを取りにやらせた。予想はしていてもそんな事までするとは思っていなかった。軽蔑したが上司の「命令」には従った。資本主義社会で出世を目指す人間は、こういう種類の人間性を持たざるをえなくなるというサンプルを見た。もしぼくが本物の社畜になっていたら屈辱も感じなかったことだろう。しかし屈辱の感情は簡単に癒されるものではなかった。理性的に批判できても心に蓄積するものはなかなか消し去ることはできなかった。外に向かって怒りを出せれば良かったが、会社を辞めるという選択肢はなかった。妻からは会社を辞めたら即離婚だからと念を押されていた。(妻は自分のやり方でぼくを守った)これを耐えていくには哲学以上のものが必要だった。その頃NHKのラジオ番組に「こころの時間」というのがあって、仏教の中の唯識についての講義が行われていた。仏教はキリスト教批判のニーチェルサンチマンに結びつかないので認めていた。その講義で仏教が宗教というよりは哲学であることが分かった。祈るのではなく、分かることを基本においているからだ。そして唯識の存在はぼくを幾分保守主義者にした。現在はぼくは天皇制を根拠とする国粋主義には反対だが、天皇を国民が支えるとする国民主義であればその保守を支持する。とにかくその頃の自分との戦いから、唯識との出会いがあり西洋哲学以外の哲学の源泉に触れるチャンスに恵まれたのである。