あるのは現在だけで、過去も未来も実在しないとする考え方にぼくも賛成する。その上で実在しない未来と過去のどちらが重要かを考えてみたい。未来は現在の選択によって自由に変えられるのに対して、過去は変えられないから未来の価値を重要視するのが大方の考えだと思う。しかし厳密に未来だけを現在や過去から切り離して考えてみると、未来は記憶を失った人のように自分を証明するアイデンティティが何もない、と考えられる。自分がなくなって何をしたらいいかの理由がないのだったら、何をしても面白くないだろう。自分というものは過去(実質は過去の記憶)があって初めて存在できると考えると、過去から現在に繋がっている記憶の集積が重要に思えてくる。よく、過去にばっかりこだわっていては何もできないわよ、などと言われたりするのだが、過去にとらわれずに未来にとる行動とはいったい意味があるのだろうか?多分開放感はあるだろう。過去の自分とは切り離された自由な感じは確かにすると思う。しかししばらくするとその感じはなくなって、何をしたらいいか分からなくなるのではないだろうか?最初は自由になった開放感があり、しばらくしたら何をしたらいいか分からなくなる、この展開って何かと似ていないだろうか?
そう、定年を迎えた人が経験する定年後の未来と現実の展開だ。一見何でも出来そうでしばらくは色々やってみては続かず、そのうちに何もしなくなるというプロセスには普遍性があるのだろうか?ぼくの場合、今続いているのはテニスも読書も英語学習も定年前からやっていたことだ。英語はやや違うが、テニスも読書も定年前に続けていた習慣だ。英語は定年前に続かなかった原因をつかんで対処して続いているから、連続性はある。誰か、定年後新しく始めて続いている人がいるのだろうか?もしいるとしたら、その人にとって未来は過去より重要といえそうである。
未来には過去にない価値が確かにある。それは可能性である。だが、可能性だけあっても実現性がゼロに等しいとしたら虚しいだけだろう。例えば、1パーセントのグローバル資本主義者の支配から99パーセントの世界の人々を解放する可能性がゼロに等しいとしたら人類の未来はないだろう。つまりあるのは過去と絶えざる現在だけということになる。だがしかし、人間は繰り返しの現在が永遠に続くのには絶えられないはずだ。人間は同じことには飽きるからだ。さて、ここまでの論理展開に誤謬はあるだろうか?