開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

現在だけある人は貧しいか

突き詰めるとあるのは現在だけだというのは、真実だと認めよう。しかし現在だけに生きるのは二つに分かれる。現在に集中して生きている人と、現在だけしかない人だ。現在だけしかない人は、時間の観念もないだろうから時間がいつも無いと感じているはずだ。あるいは現在という時間は長い人とほとんど一瞬という、二種類の人に分かれると言ってもいいかもしれない。今朝フランス文学者の旅行記を読んでいて、ナポリギリシャの都市で受けた印象についてその時間を問題にしていた。ナポリのメインストリートには信号がなく、スピードに酔いしれる車と、混雑した車の間を絶対に止まるはずだとしてひるむことなく渡る歩行者の姿が無秩序に見られる。ギリシャには信号があり、車も歩行者も待つだけの余裕があって整然としていた。ナポリは待つ時間がなく、ギリシャは待つ時間がある。おそらく待つという態度が時間を意識させるのだと思う。つまり待つことが時間を生み出すのだ。ここでは客観的な時間は無いものとする、というか客観的な時間は科学的な見方から想定された人工的なものだ。

さて待つことができない暮らしは一般的に貧困層に多いとされる。ギリシャの暮らしもそんなに裕福な人が多いと思えないが、そこはかつてのヨーロッパの首都の歴史がものをいっているのだろう。待つという単純な行為の中に、豊かさの厳粛な区別が隠されている。だがしかし、ナポリの無秩序もエネルギッシュでアナーキーな自由の魅力があるとして、肯定もできるのではあるまいか。秩序立ったギリシャには、今生きている充実感に欠けている面があるのではあるまいか。多分、現在が圧縮されている状態が充実した「生」になっていると思う。文学でいえば、「イワンデニソヴィッチの一日」や「ユリシーズ」の1904年6月16日が思い浮かぶ。