開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

自分に課せられた問題は何か?

おそらくこの問題を解くことがこのブログを活かすことに繋がるはずだ。何かマーケティングを駆使して読者を増やそうとするより、自分が取り組むにふさわしいことを自身に見いだすことが数倍大事なことに思える。今からはこれまでのように、自分が書きたいことを吐き出すようにこのブログ空間を使うべきでは無いと、はっきり思える。もうその時期は過ぎたのだ。自分自身が担える課題とは何だろうか?社会的な課題はどうだろうか。原発や環境問題、貧困や差別の問題、引きこもりやいじめの問題、ファシズム同調圧力と闘い民主主義を定着させる問題、それらは自分が担える自信がないし身近に感じるように行動することもためらわれる。自分が一番身近に感じられるのはやはり文学の世界になる。だとしたら文学の世界で自分が担えることはどんなことだろうか。いや、そもそもそんな事は自分にあるのだろうか?

小説を書くことも批評を書くことも、これまで少しもできそうと感じる事はなかった。少しできそうと感じるのは、本を読んで考える事だ。考えたことを文章に綴ってみる事はほんの少し自信はある。ということは書評を書くということだろうか。書評を書くことが自分に課せられた問題なのだろうか?それは問題を解くことになるのだろうか?何かの問題を解くのに書評が自分に適しているのだろうか?

どう考えても書評が自分に課せられた問題には思えない。誰もぼくに書評を書けとは頼まないだろう。それにぼくも書評を書きたいとは一度も思ったことがない。ただ、考えてつかんだことを伝えたいと思ったことはある。突き詰めるとただ、考えることはしたい気はあるようだ。考えることは自分に課せられた問題だと言えるだろうか?お前はこれについてどう思う?と言われれば考えてみたい気はする。では何を考えたら、どんな問題を考えたらいいのか、について考えてみることにしよう。考えられることは全てだととりあえず答えておこう。結論は、自分に課せられた問題は、考えられることを全て考えること、である。