開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

基本的な今後のぼくの生き方(続き)

今後の人生、つまり定年退職した二番目の人生の基本的な生活が独学だとしたが、読み書き能力のアップをもっと具体的にしなければ将来について展望できることにはならない。これまでも何を読むのかについては文学が中心だった。文学には主人公と彼を取り巻く人間関係や背景の政治経済の状況などが描かれ、より実人生に近く主人公の内面から見た諸関係が描かれることを追体験することで、読んでいる自分も疑似体験できるから、という事情がなぜ文学中心かの答えになる。親の世代には戦争がありどんな体験をしたかは、いくつかの戦後小説から類推できる。今はネット社会になりコメンテーターばかりになっているが、それ以前には知識人なる言論人がいて生きる指針を提供してくれていた。だからぼくの学生時代は数人の知識人から独学で学べばよかった。いわゆるラディカルであることが知識人の条件であるような時代でもあったので、例えば国家や大学や制度がそもそも何であるかまで考えることが前提になっていた。今は何であるかまでは問わず、当然のようにあることを認めて起きる現象を解説しているだけだ。だから戦争は国家があるかぎり、なくすこと自体が問題に立てられない。今後中国とアメリカが戦争すると解説するコメンテーターの予測がネット界隈で見かけるが、習近平中国共産党を国家消滅を目指していた頃もあるレーニンの時代に遡って批判する知識人はいない。しかし現存する知識人の一人、ダライ・ラマは自分を世界市民であると言っている。国家の枠はレーニン以前のマルクス主義者のように、制限と考えていないのだ。このラディカリズムの文化は全共闘が担った学生運動の遺産と言えると思うのだが、インターネットが壊してしまったのか、それともソ連崩壊からの歴史的な流れが原因なのかよく分からない。よく分からないが、ひょっとして冷戦という2項対立の状況がラディカリズムを生んでいたのかもしれない。とすれば、中国対アメリカという新冷戦はラディカリズムを復活させることになるのかもしれない。

ここで一人の歴史学者を紹介しよう。石塚正英という東京電機大学教授だった方で、学問のノンセクト・ラディカルを実践されておられる。ぼくはネット検索という技術がなかったらこの方を知ることはできなかった。「学問の使命と知の行動圏域」という本をタイトルに惹かれて購入した。

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