確かに先の大戦での破壊され尽くした光景は、悲惨そのものである。しかし、ぼくには上の映像から破壊と同時に無限の自由をも感じられていた。それはいつ頃つかまえ得たイメージなのかよく分からないが、究極の破壊の後には創造しかないという健全な逞しい論理をかなり前から信じていたからだろうと思われる。埴谷雄高は戦後すぐ、同人誌「近代文学」を創立した頃には廃墟から創造に向かうエネルギーを体いっぱいに感じていただろうことが容易に想像される。占領軍アメリカは日本の軍国主義を精神から破壊するために民主主義を導入し、朝鮮戦争が始まるまでは労働運動に自由を与えていたらしい。そのわずかな数年は、革命を妄想できる雰囲気があったのではないかと推測されるのである。「死霊」はその当時の妄想を小説空間に再現できた点で、歴史的に限定されるのであるが、それゆえに永遠の文学的生命を持つことになった。その中心的概念である「虚体」は単に哲学的概念ではない。いわば権力の無化状況が奇跡的に訪れた期間を幸いにも生きることができた埴谷自身の精神形態であったと思われる。そのように仮定すると「死霊」を追体験できる入口が開かれると思う。