開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

日常からロマンへ

単調に連続する日常からどのようにして物語を始めるか、という決定的な創造場面にいったい何が必要なのか?実際には偶然としか言いようのない他律的な出来事が自分に襲いかかる。ちょっとしたアクシデントなのに本人にはどうしようもないほどのダメージを与える。事故や病気というはっきりした出来事ではない場合もある。ちょっとした一言が破壊を招く場合もある。資本主義は人間をモノのように扱う。使用価値がなくなれば廃棄されるから、うかうかしていると人間性をどこかの場面で失うことはほぼ必然と思われる。それを認めたくない気持ちは分かるが、認めずにいることは自分の心にウソをつくことになるのでそれはそれでしんどいことだ。人は思春期に自分に内部があることを発見するが、実際に内部に住むことを学ぶには社会環境での決定的な齟齬が必要なように思う。ところでこのような問題設定は、全てが治って解決済みの今だからこそ記述できることである。ぼくが「百済観音の微笑み」を解説したいという気持ちも今だからこそできるのではないかと思えるからだ。今日一つだけ間違いなく言えるのは、「百済観音の微笑み」には歴史を超えて伝わる無限の優しさが実体として「ある」ということだ。無限の優しさには無限の癒しの力があり、ほとんど快感のように感じられる。それは感じられる人にしか開示されない。崇められる「神」とは言わないが、信じるに足る存在であることは確かである。

物語は時空を超えて生き始めることである。