開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

死ぬまでに出会いたい芸術のこころ

毎月公民館の読書会に参加していて、今日午後からそれに出る。読む本が全て文学だとはいえない。日本の短編小説が主となるが、人生の一コマが切実に展開する濃い時間が自分を巻き込んでいく時、何かに出会っている感覚になる。揺さぶられるのだ。しかし単に脅かされただけだとそれで終わるが、中には深い謎を突きつけてくる小説もある。だんだん読書の好みが複雑というか、微妙な感じといおうか、刺激の質が洗練されてくるのだろうか?ここのところ、どこかに疼くような文学熱が生じてしまったかもしれない。日本の作家の短編小説だけでは物足りなくなった。ぼくの小説の好みは大河小説で、長編はもう読む人が今の読書会では、一人か二人になってしまう。でもどうして長編小説でも仲間が欲しくなったのだろう、自分だけ読んでいればそれで済まないのか?

一人だけでは存在性が薄い、とでも言おうか本当にそうなのかが危うかったりする。読書では自分の読みに自信があった方なのに、ここにきて弱気になってきたのか?いわゆる承認欲求ってやつだろうか。確かに、ここに、今、この自分が生きているということを誰かに認めてもらいたいという欲求には、一体何があるのだろうか?何かが自分から新しく生まれ出ようとしているのではないだろうか?欲求は求めている状態なのだから、埋めるために動かなければならない、、、

大河小説が好きなのは、一緒に生きている感覚が持てるからだ。変な話だが、あまり小説的でない生き方の方が真実味があって人生の深みを感じたりする。日本人なら前世を感じたり、西洋人だったら神のご加護を感じたりする、一つの宿命のような大きな動かぬものに出会ったりするのが何となく心が休まっていい。20世紀には戦争や革命があった。ショスタコーヴィチ交響曲第7番がどのような意味を持つか、ロシア人でない日本人であっても、芸術がパンより生きる力になった歴史の重みは感じることができる。ドイツの捕虜となったポーランドの将校たちは零下四十度の監獄の中で、「失われた時を求めて」を思い出して耐えた。日本で言えば「長崎の鐘」になるのか、戦争と芸術という普遍的なテーマは歴史的に生き続ける。そのような最後の最後に支えになるような芸術の心に、ぼくも出会いたい。

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