開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

新たな苦しみが始まっている

これまで、定年後再就職せず無職のまま自分の可能性を耕していく生き方をしていればいいと自分を納得させてきた。ところがここ数日、夢に見る内容を振り返ってみると、お前はどんな仕事をして何を残すのか、という問いが発せられているような気がする。あれは四年ほど前のことだろうか、ある友人がぼくに突きつけた言葉が今も残り続けているらしい、、、

「お前は仕事で何を残したのか?」

男としてその問いに答えられないのは、辛いことだ。ぼくが選んだ職業は、何となく、仕方なくだった。これはいけなかった。ヘルマン・ヘッセと同じで、将来に対する明確な見通しをどうしても持てなかったから、何となく、仕方なくがいつものやり方だった。どうしてもやりたいことがわからず、それは職業では見つからない何かだった。

今からだって遅くない、自分の仕事が何で、何を成し遂げて残すのか、をここ数日考え続けてきた。最初、翻訳ではないかと思った。しかし英語に目覚めたのはぼくの67年間の人生からしたら、つい最近と言っていいくらいなものだ。それは自分がやるにはあまりにも隔たりの大きい分野に思えた。仕事で何かを残す、ということに含まれるのは客観性だ。誰もが認めうる成果でなければならない。翻訳ではない、と気づけたことで一歩前進だとしよう。

昨日、書棚から「復興期の精神」を取り出して最初の章を読んだ。吉本花田論争というのがあり、その論争に負けたとされる花田清輝が書いたエッセイだ。例えば、このような今は誰も読まない隠れた「名著」を読んでブログで紹介するというのは、ぼくの仕事にならないだろうか?その紹介の手さばきがプロの領域になっていれば、確かに「仕事」になりそうだ。だがしかし、紹介の手さばきとは一体どんな能力だろう?考古学のような厳密さがそもそも要求されるかもしれない。それと誰も気づかなかった「新しい」視点が要求されるだろう。そうすると先行する文芸研究をくまなく読む必要が出てくる、、、先を見通すとすでに茨の道が見える。