開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

「古寺巡礼」にはなかった

その微笑んだ映像は、石川県立美術館の地下エントランスにガラス張りのケースの中に立っていた像と対面し、出来るだけ密着して寄り添おうとしたぼくの眼差しに応えたものだった。その時に受けた印象は他に例えようがなく、父性的で能を舞う時の幽玄さを漂わせた、という形容が精一杯の表現だ。間違いなく美しかったが、同じ割合で善きものでもあった。男性的な美であるが苦悩や厳しさはなく、超越して天上の人となっているのでもなく、近寄りがたさもなく、弱々しくはないが強さも感じさせない粛々とした感じで、自身に全く欠如がない感じで立っておられた。どのような心のあり方が、そのような姿を可能にするのだろうか?その謎を知りたくて、最初手に取ったのは、和辻哲郎の「古寺巡礼」だった。だが何かが違っていた。実感が感じ取れなかった。和辻は外側にいて自分の感じを分析していた。それは文学ではなかった。文学でしか実感は表せないと、埴谷雄高は言っていた。

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