私という存在形式は意識と身体を持って、他者の集団の中に置かれている。私は私の意識を使って自己と他者の間を無限に探求できる。探求は自己を拡張していく。この世に生を受けて以来休むことなく、探求を続ける。「なぜ」という問いをある日覚え、答えを探求し続ける。既に生まれてすぐのことで、まだ言葉の発生以前にそういう欲求をしていると思われる。埴谷の「自同律の不快」は、おそらくその辺の事情を語っていると思う。ところでそのころの全身で探求するエネルギーを今でも再生し保ちたいと思う。もう老年にさしかかろうとする私の存在形式において、探求のエネルギーをうまく発生させたい。定年退職して働いていない私はそうしないとすぐに睡魔に襲われてしまう。読書中に探求状態になると、エネルギーが漲ってきて覚醒している状態になる。それはアスリートが集中している時、ランナーが限界状態の時にランナーズハイを迎える時の快感と同質のものだろうと思われる。あるいは坐禅をしてしばらくすると訪れる静止状態とも同質かもしれない。志向性を無限に開放してあげること。幸いなことに人間であれば誰にも備わっている意識を使えばできることなのだ。身体が無意識に働き続けているこの自分に、意識が備わっていることのありがたさを感じながら探求を続けたい。探求は力なり。