開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

色川武大「善人ハム」を読む

戦後すぐの頃に、ゲーリー・クーパー主演の「善人サム」と言う映画が流行ったそうだ。その頃米軍が日本を支配し占領政策を行なっていたので、アメリカ文化を日本人に洗脳させようとしていた。その「善人サム」の主人公を善人の干物みたいだと苦笑した、と「善人ハム」の中に書かれている。うまい表現だと思った。東京下町の庶民のこころ粋きを感じた。「善人ハム」の主人公は日支事変で功績があって勲章をもらって帰京していて、町内では尊敬されていて友人も多い。生業は肉屋でそれで「善人ハム」なのだが、コロッケを作ったりすき焼き用の霜降りのロース肉を出すような、お肉屋さんにはならない主義だった。戦後すぐのバラック小屋で売り続け、リヤカーで料理屋などを回って下ろしていた。最初読んだ時、その人柄に好感を持った。マージャンが好きなのだがいつも負けてばかりいる。賭けマージャンは違法で、現行犯逮捕で調書を取られるときはゴワゴワした服に着替え、堂々としていて取り調べの警察の方が貧相に見えたらしい。肉屋は気の向いた時にやって定職を持たない生き方をしていた。勲章はもらっているが軍人ではなく、ことさら主張することはせず謙虚だった。町内で祭りがあると然るべき役回りを卒なくこなす町内では必要な人なのだが、ある時飲み会で怖いもの話の共演になって、善さんの怖いものは嫌な夢だと打ち明けた。中国で捕虜の民間人(ゲリラかもしれない)を率先して突く夢だ。その時のゲンコツを胸の前で突き出す動作を何度も示して簡単には止めようとしなかった。日支事変の後も何回か戦場に赴き、なまじ勲章をもらっているので見本を示すように言われ続けたらしい。周りがほっとかないで何度も嫁さんを紹介されていたが、五十過ぎてようやく嫁さんをもらう気になった。古くからの友人と久々の麻雀で負けて手酌でどんどんウィスキーを飲んだ夜は、息苦しく死にそうになった。そばに駆け寄ってきた妻は「一足お先に向こうで待っていてね、後から行きますから」と真顔で言ったそうだ。医者は急性アルコール中毒と診断した。その時のことを後からあいつは安心して死ね、と言ったんだと友人にこぼしていた。そういうその当時下町にいた愛すべき庶民が、花引善蔵だった。ぼくは全編に流れる空気に、自分の子供の頃の町内会に似たものを感じて、親しみを持った。

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「善人ハム」は「公然の秘密」の十二番目に収められている