開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知るために、そしてそれを解くために。

物語装置としての「界」

以前このブログで「界」という概念について少し書いてきたが、今日はそれを自身の物語づくりの装置として位置付けてみたい。物語は自分史を書くこととほぼイコールなのだが、過去の自分の発見ばかりでなく自分の死に対する準備をも為す、ほとんど必須のものと言えると思う。自分史を書かなければ他者から承認を得ようとして実存する自己を失うだろう。ぼくのような人間は「可哀想な奴」として、同級生や元社員の間で噂されているだろう。いわばぼくはこれまで偽の「界」に繋がれていた。偽の「界」を破壊し、本当の「界」を作らなければならない。

初めて書くことを始めた時、自由な意識の流れを生み出していることに心地よさを感じた。「界」のなかにいる時、心地いいという感覚の有無が決め手になる。高校1年の世界文学全集を順番に読み始めて行った頃や、大学1年になって「丘を見渡せる離れ」に自分の部屋を持って無為に過ごした頃に、「界」の原型を作ったと思える。世界文学全集と明るい太陽に照らされた丘を眺める部屋で、自由な意識が作られたと今振り返ってみてはっきりわかる。本と明るい部屋が自分の居場所なのか、それ以外の場所では居心地が悪くて絶えず自分を他者に適用させようとしていたのだと思える、、、

さて「界」に影響を与える最も破壊的な力は、ぼくにとって「戦争」なのである。サルトルにとっても戦争であったことが「自由への道」を読むと分かる。ヒトラーが戦争を起こす時期を予測できなかったことが屈辱を与え、捕虜体験からの回復のために実存の哲学を打ち立てた。ぼくにとっての「戦争」は、67年の自分の人生にとっては瞬間的ではあったが、大学留年時の身の危険に巻き込まれた「政治的な」恐怖体験である。このように書くと大げさの感がするが、実際的というよりは想像的な体験と言った方が適切かもしれない。現実には何も起こらなかったのだから。しかし自分で思っている以上に、この想像的な体験は「界」に影響を与えているかもしれない。それは平凡な日常に耐える力と耐えられない力を両方与えている気がする。