過去の記事「見捨てられていた25歳」の続編として書きました。
南佳孝の「South Of The Border」をspotifyで探して聴いている。ぼくが25歳で一人暮らしをアパートでしていたころを思い出していた。地元の50人くらいのほとんど社長家族や同族の会社に就職して、社会人生活にようやく慣れてきたころだ。LPレコードのカバーが池田満寿夫の版画だったことと、気だるくて都会的でオシャレな曲が気に入って買い求めたものだった。定年退職してから何度かこのLPの曲を聴いていて、これまではあの頃の虚脱感と寂しさを思い出して最後まで聴けなかった。今日こそ、ぼくの人生で最悪だった時期を意味ある時期に転換しようと試みてみよう。もう40年以上も前のことをどうして振り返らなければならないのか?それは、未だにあの頃に受けた傷が今でも心の奥底に残っているからだ。今の妻との結婚がその傷の大半を癒してくれたのだが、まだ残っているとしたらそれはどん底まで行った孤独感が深すぎたためのように思える。場違いの会社での慢性的な孤独に、失恋による孤独、将来の目標の喪失による孤独が重なった。南佳孝が歌い上げる女は素気無い、コケティッシュな彼女を思わせた。彼女はぼくに何も関心を持とうとせず自分のからだに閉じこもっていた。心を通わせることが少しもなかった。彼女と別れて必死になって何か目標となることを見つける必要があった。忙しくして仕事に閉じこもるか、何か新しい趣味を見つける必要があった。でもあの頃はなかなか前向きになれない性格だった、、、
一晩寝てから追加の文を書いている。寝ている間もこのブログの問いに無意識に答えようとしていたのだろう。失恋の人生の意味はぼくの場合、暖かい人間になることだった。南佳孝のようなクールな男を捨てることだった。心の中に暖かい何かを育てることだ。最近村上春樹の短編「アイロンのある風景」を読んだが、中年のオッサンと若いカップルが焚き火で暖まるイベントを中心に展開される小説なのだが、今思い出して彼らの気持ちが心底分かる気がした。