今度の野々市市の公民館での読書会で、村上春樹の短編「アイロンのある風景」がとりあげられる。昨日2回目を通読した。隅々までも馴染みの「村上ワールド」だった。ぼくには馴染みでも、ぼくより人生の先輩方ばかりの読書会で「村上ワールド」は初の人がほとんどだ。「海辺のカフカ」や「1Q84」を読んだことがある女性は、パラレルワールド形式自体に馴染めなかったようだ。以前どうしてそういう形式をとるのかを質問されたがうまく答えられなかった。要するに私という存在には外側に向けて生きる自分と、内側に向けて生きる自分がいて、事実や真実をリアルで自由に表現しやすいと考えたから、というようなことを応えた記憶がある。
今度の「アイロンのある風景」で、三宅さんは順子を一緒に死のうと誘うのかがぼくには分からなかった。村上春樹はそれを書くときに頭にあったのは、ひょっとして太宰治ではないかと勘ぐってみたが確証があるわけではもちろんない。春樹は日本文学を壊そうとしているような感じがするのだが、それは父親との確執に原因があるようだ。とにかくぼくが読んできた作品では、小説内小説が登場し小説で文学論をやっているかに思われる。文学論まで行かなくても固有の作品が紹介される。「アイロンのある風景」ではかなり重要な役割で、ジャック・ロンドンの「焚火」が登場する。読書会のメンバーで熱心な人がいてわざわざ野々市図書館でそれを見つけて、読んでからぼくに回してくれた。熱心な村上春樹の読者または本好きの人は、せっかく春樹が小説内で誘っているのだからジャック・ロンドンの「焚火」までを読むと思う。ぼくも読んで小説内小説の融合を味わうことになった。つまり読書から得た影響を自分の小説で展開する物語なのだが、考えてみたら別に普通のことのように思える。ただ主人公の順子は普段本を読まない若者でジャック・ロンドンの「焚火」は唯一の例外だった。そして順子は他の村上作品で登場する直子やユズキに似ていて自殺願望があり、父親との関係が複雑である。三宅さんは東灘区という固有名詞に家族を置いてきていて村上春樹本人を思わせる。家出してきた順子は三宅さんの焚火イベントに付き合ううちに、本当の家族を感じ始める。この短編は阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件が起こった1995年の間の月、2月が小説内現在とされている。傷ついた心の改修には焚火の力に頼るためにジャック・ロンドンの「焚火」の深さまで追体験することが求められたと、ぼくには感じられた。ついでに言えば、この短編で志賀直哉の「焚火」を批判(作品を書くことによって結果的に)しているらしい。