開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

人生の意味を考える

自分が生きて死ぬことにどういう意味があるのかについて考えてみたい。意味があったほうが充実して生き生きと人生を全うできると思うからだ。もし愛情に恵まれた家庭環境と職場で、生まれてから死ぬまで愛を感じられる人間関係を維持できて暮らすことができれば、自分の人生の意味を問うことなく満足して人生を終えるだろう。しかしそんなことは実際にはあり得ない。

よく、なぜ生きるのかという問いを問題にする人がいるが、その問いは意味を見出すことではない。意味はなくても理由なしに生きるのはむしろ普通のことで、そのように生きることを強いられているから意味が欲しくなるのだ。愛があればその普通から幻想的に逃れられるにすぎない。なぜ生きるのかというのは生物だからだ。そういう問いではなくて、生きる意味を求めて豊かに愛し愛されるような人間関係を築いて行けるようになるには、どんな意味を見出していけばいいかと問うことだ。例えばキリスト教は隣人を愛せよと言う。隣人には意味があるのだ。仏教にも、「袖振り合うも多生の縁」という教えがある。道で人と袖を触れあうようなちょっとしたことにも意味があるのだ。でもぼくは日常無宗教で生活しているし、ぼくの周りでも宗教は生きていないのが実情だ。隣人や縁を大切にし、自分に関係あることとして、どういう意味があるか考えよ、ということなのかも知れない。要は宗教ではなく合理的に考えよ、ということだ。確かに隣人や縁には意味があるはずだ。このブログという環境で、つながりができることにもきっと意味があるのだろう。

同じことを以前はちょっと難しい言葉で書いていた。

hotepoque.hatenablog.com