開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

普通の人か、固有の人か

今ぼくは岐路に立たされている、という自覚が湧いてきている。定年退職して妻とともに順調に老いていく普通の人の道か、青春期に掴んだ時代の要請に応えようとする固有の人の道かに分かれている。前者の場合、人並みの郷土に暮らす好々爺の顔になっているだろう。後者の場合、いつまでも戦争中の仲間のことが忘れられない、ぼくの人生の先輩たちと同じ顔になっていることだろう。今この岐路を意識しなければどんどん前者の道の方へ、なだらかに傾斜していくことだろう。あまり悩まず身をまかせるように進めばいいのだから。それは敗北ではないのかという声と、いつまでも狭い殻に閉じこもっていては残りの人生を楽しめないのではないかという声がする。遠い昔付き合っていた同級生の彼女に、あなたは禁欲的だと言われたことをまた思い出す。ちょっと前、これまた息抜きに「定年後鉄道ひとり旅」という趣味のガイドブックを「真面目に」読んでみたが、確かに面白そうな感じはしたがそれだけだった。つまり自分が変わりそうな感じがしなかった。後者の場合、自分がますます自分になっていく(固有の人の)ように感じられる。

ここで前提になっている「自分」について考えてみたい。仏教では「自分」というものは錯覚で、本来無我であるものをあるもののように意識する「我癡」は、癖のようなものとして否定されている。執着は悪につながるから捨てよと教えられる。ぼくはサラリーマン時代に社長から言葉による暴力を受けた時、唯識に出会って仏教の基礎的な考え方を受け入れ、引きこもりから回復できた経験がある。その時の経験からしたら、固有の人になろうとすることは錯誤になる。どうしてぼくは自分にこだわり、自分になろうとするのだろうか?そこに見栄はないのだろうか?

自分はまず肉体だとしよう。肉体は生きていて100年くらいは実体がある。自分はこの肉体に所属していて生きている。ぼくが危惧するのは自分をなくすると、肉体も無くなって生きているエネルギーまで失うのではないかということだ。錯覚や妄想には間違いの要素はあるが、エネルギーはある。間違いの元を根本的に排除してしまうとエネルギーまで失うことになる。ぼくは仏教の方をむしろ捨てるべきなのではないかと思ってきた。正しさだけに生きることはできないし、つまらないと思う。