開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

読書会:朗読する箇所を選ぶ

前にも書いたが、来年唯川恵さんを招いて講演会を開くことになっていて、講演前のイントロに朗読することが計画されている。どの著書からどの部分を朗読するかの案を提出するように野々市文化協会から、ぼくたちの読書会に依頼があった。唯川恵さんは女性向けの恋愛小説がほとんどの中、ぼくは田部井淳子さんをモデルにした「山岳小説」の『淳子のてっぺん』を選んだ。登山は今でも男優先の世界で、女性は挑戦者になる。恋愛の世界はぼくには女性優先のように思えた。ぼくが小説に入り込むにはやはり男が馴染みやすい方がいいと思った。そこで、以下にぼくの朗読箇所の案を抜き出してみる。ここが『淳子のてっぺん』を書いた動機の一つが伺えたからだが、全体の要約にもなっている。

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ふと振り返ると、女の子がひとり、登山道から逸れて岩に腰を下ろしていた。頭を垂れ、肩を上下させてぜいぜいと荒い息を吐いている。淳子は斜面を降りて、声を掛けた。

「大丈夫?」

女の子はびっくりしたように顔を上げた。

「あ、はい、、、ちょっと気持ち悪くて、それに頭も痛いし」

どうやら軽度の高山病に罹ったようである。

「じゃあ、まず深呼吸しよう。ゆっくりね。吸うよりも、吐く方を意識して」

言われた通り、女の子は何度か息を吐いた。

「水も飲むのよ」

低温の中を歩いていると、本人は汗をかいていないつもりでも、実は相当にかいている。水分不足になると血液の流れが滞り、酸素が行き渡らなくなる。これが高山病を引き起こす原因にもなる。

女の子はリュックからペットボトルを取り出した。

「少しづつ、噛みしめるようにして飲むの。あんまりごくごくしちゃうと、呼吸が乱れて、苦しくなるからね」

それにも、女の子は素直に従った。

この子のことは覚えていた。昨日、六合目の山荘に参加者全員が集合した時から、何となく気になっていた。登山を前にしてテンションが上がっている子供たちの中で、ひとり居心地の悪そうな顔で、端っこの方に座っていた。

参加者はみな、震災の影響を受けた子供達ばかりである。たとえ明るい笑顔を見せていても、無理して演じているというのは十分にありうる。それでも、笑顔というのは不思議なものだ。笑っているうちに、いつしか「楽しもう」という積極的な思いが湧いてくる。けれども、この子は違っていた。楽しむものを意識して避けようとしているように見えた。

「あの、私、ここで下りてもいいですか」

唐突に女の子が言った。淳子は驚いて見返した。

「そんなに体調が悪いの?医療班、呼ぼうか?」

「いえ、そこまでじゃないですけど・・・・」

「だったら、ここでもう少し休んで、それから登ればいいよ」

「でも」

「どうかした?」

女の子は足元に視線を落とし、声をくぐもらせた。

「私、何のためにこんなしんどい思いをしなきゃいけないんだろうって、登っているうちにだんだんわからなくなってきたんです」

淳子は改めて少女の横顔に目をやった。

「そうだね、確かにしんどいよね」

「もう、しんどいことはたくさん」

大人びた翳りが、女の子が抱える深い心の傷を映し出していた。

後から登って来た生徒らが、心配そうな顔で横を通り過ぎて行く。引率するスタッフが「私が付いていましょうか」と声を掛けてくれたが、淳子は首を振った。

「ううん、任せておいて」

空は更に明るくなっていた。覆っていた薄雲ももう見えない。代わりに、眼下には波のような雲海が広がり、東の方が赤く染まり始めていた。

「聞いてもいい?」

「え?」

「家のこと」

「ああ・・・・・、はい」

「どうだったの?」

津波で流されました」

女の子はぶっきらぼうに言った。そのドライな口調がむしろ重く響いた。

「そう、大変だったね」

「私は高台まで走って逃げたんですけど、できることなんか何にもなくて、町全体が壊れてゆくのをぼーっと見てただけでした。あの時の、家が壊れるパキパキって音とか、サイレンがわんわん響き渡る音とか、ものすごく怖くて、もう思い出したくもないのに、今もずっと耳の奥に残っています」

テレビ画面で観た人でさえ、あの容赦ない惨状に声を失ったはずである。実際に目撃した人たちの驚愕と衝撃は想像を絶するに違いない。

「ご家族は?」

「おじいちゃんが、船を見に行くって、港に行ってそれきり」

こんな会話は、女の子をいっそう辛くさせるだけかもしれない。しかし彼女自身、抑えていたものを吐き出したがっているように感じられた。実際、躊躇いながらも話し続けた。

「両親も弟も無事だったから、みんなによかったねって言われるけど、どこがよかったのかぜんぜんわかんない。おじいちゃんは今も見つからないままだし、家は引っ越して近所は知らない人ばかりだし、お父さんは離れたところに働きに行って月に一度しか帰って来ないし、親戚は住んでたところが原発避難区域に指定されてばらばらになったし、学校が変わって友達もいないし、ずっとハンドボールをやってたのに、転校先には部がなくて続けられなかったし」

淳子はすぐに言葉を見つけられなかった。この子を襲った出来事はあまりにも重すぎて、押し潰されてしまうのは当然だった。そして、その経験は彼女ひとりではなく、何十万の人と重なるのだ。

黙っていると、女の子がわずかに顔を向けた。

「言わないんですか?」

「えっ?」

「頑張れって」

淳子は女の子を見返した。

「だって、こういう話をすると、いつも帰ってくるのは『頑張れ』に決まってるから」

女の子の口調は硬かった。

「それ言われるの、いやなんだ。」

「もう、うんざり」

小さな動物が毛を逆立てて精一杯主張するように、その身体から怒りが発せられている。

「そうだよね」

頑張れ、は確かに励ましの言葉だ。けれども言葉は道具でもある。どんなに便利なナイフでも、使い方を間違えれば相手を傷つける。

「そうそう」と、話を変えるように、淳子はザックを開いてタッパーを取り出した。

「いいものがあるの。食べてごらん、元気が出るよ」

中には干し柿が入っている。女の子は面食らったようだった。

「ほら、遠慮しないで」

勧めると、おずおずとした仕草でひとつを口にした。

「あ、おいしい」

「でしょう。私の故郷、三春町の干し柿なのよ。太陽の光をいっぱいに浴びているから、その分、エネルギーもいっぱい詰まっていてて、疲労回復に最高なの」

「うちも毎年冬に軒先で干し柿を作ってきました。その時はあんまり食べる気になれなかったけど、こんなにおいしかったんだ。ちょっとびっくり」

ようやく少女らしい笑みが浮かんで安堵した。淳子も口に運んだ。自然の甘みが口の中に広がってゆく。

「あの、田名部さんって、病気なんですよね」

女の子が不意に尋ねた。

「そうよ。よく知ってるわね」

「ネットで見たから」

病については公表しているが、子供たちには関心のない出来事と思っていた。

「それなのに、何でこんなしんどい思いして山に登るんですか?」

「うーん、難しい質問ね。そうだな、何でだろう」

淳子は逆に問い返してみた。

「何でだと思う?」

答えを探って欲しかった。そこに、彼女が置かれた状況に繋がる何かがあるように思えた。

「そんなの、わかんない」

ぶっきらぼうに女の子は返した。

「そっか、わかんないか。そうだよね」

あはは、と淳子は笑い声を上げた。

「その前に、聞かせてもらってもいいかな。あなたはどうしてこの富士山登山に参加しようと思ったの?」

「お母さんに勧められたから」

「それだけ? 仕方なくってこと?」

「まあ」

「だったら、行かないって言えばよかったじゃない」

「そうだけど」

言ってから、次の言葉までに、女の子は少し間を置いた。

「でも、もしかしたら、山に登ることで自分が変われるかもしれないって思ったんです」

それは淳子にとって嬉しい答えだった。

「よかった」

「何がですか?」

「変われるかもしれないって思うのは、変わりたいって望んでいるってこと。あなたはもうちゃんと一歩を踏み出している。大切なのは、その一歩よ」

女の子は言葉の代わりに、瞬きを返した。

「私の答えも同じ。私はいつも、山に登ると自分が変われるような気がするの。子供の頃からそうだった。今も同じよ。だからずっと登り続けているの。大切なことも山にたくさん教えてもらったしね」

「大切なことって?」

「生きるってことは前に進み続けてゆくってこと」

それから、淳子は女の子に笑いかけた。

「急がなくていいの、ゆっくりでいいの、踏み出すその一歩が、生きている証なんだから」

女の子は手元に目線を落とし、逡巡するかのようにしばらく口を噤んだ。

すでに空は朝焼けに染まっている。橙色の光がまだ残る群青の空を凌駕してゆく。それが眼下に広がる雲海に反射して、鮮やかな色彩を溢れさせている。不意に稜線から一筋の光が伸びたかと思うと、彼女の顔を照らした。女の子ははっと顔を上げた。

ご来光だ。

太陽の光は刻一刻と強さを増し、女の子の顔を輝かせてゆく。その眩しさに目を細めながら、やがて女の子は指先でそっと目尻を拭った。

「きれい・・・」

「うん、きれいだね」

彼女は今、何かを得たはずだと淳子は思った。その何かは、今はわからないかもしれないが、いつかきっと答えに繋がる時が来てくれるに違いない。

太陽は徐々に、そして力強く空へと昇ってゆく。

光は強大なエネルギーに満ちていた。冷えた身体の奥までも温まってゆくのが実感できる。淳子もまた、感慨に浸りながら太陽を見つめていた。