開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

小説に美文は必要か?

唯川恵の「淳子のてっぺん」から朗読にふさわしい箇所を抜き書きしたが、今日3回目の抜き書きをアップしておきたい。これは期せずして作者の文章をそのままなぞる経験になった。ここまで時間をかけて読んだことはなく、何か新鮮なものを感じなくもなかった。それは単に読んだだけでは気づけない作家の息づかいのようなものを感じられたことだ。一層作家に近づける方法なのは確かだ。たまたま同時期に三島由紀夫の「蘭陵王」を読んでいて、三島の美文の格調が際立ったのはもちろんなのだが、しかしそんなに美文である必要があるのかという、素朴な疑問も湧いた。もし現代の読者が小説を追体験するように読むとしたら、美文調は読者との距離を隔てることになってマイナスではないかと思えたのだった。ほとんど美文などは意識しない唯川恵の小説の方が効果的と思えるのだが、あなたはどう思うだろうか?

 

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いよいよ出発の日かと思うと、やはり切なくなる。これから八ヶ月もの間、正之と離れ離れだ。世間からすれば、そんなに長い間、一家の主婦が家を空けるなんて信じられないだろう。「なんて非常識な」と、眉を顰められるに違いない。しかし、正之はひと言も文句を言わなかった。今までも、集会や梱包作業でどれほど帰りが遅くなっても、いつも夕食を作って待っていてくれ「お疲れさん」と声をかけてくれ、「同じ山屋なんだからお互い様さ」と笑ってくれた。こんな理解のある夫はそうはいない。「私のダンナ様は世界一」と、窓を開けて大声で自慢したいくらいだ。

「家のことも任せっぱなしでごめんね」

「淳子が帰ってくる頃には建ってる予定だから、楽しみにしてろよ」

また髪がはらりと落ちる。

「それより、飛行機に乗る時のルールを知ってるか?」

「何かあるの?」

淳子は海外に行くのはもちろん、飛行機に乗るのも初めてだ。

「タラップを上がったら、ちゃんと靴を脱ぐんだぞ」

「えっ。やだ、嘘ばっかり」

あはは、と正之が快活に笑う。その笑顔は淳子は胸がきゅっと締め付けられる。

「ありがとう、正さん」淳子の言葉に、正之が少し照れている。

「何だよ、改まって」

「本当に感謝してる。みんな正さんのおかげ、正さんのためにも必ずアンナプルナの頂上に立ってみせるから」

「言っておくけど、てっぺんは頂上じゃないからな」

「え?」不意に真面目な表情になった正之を、淳子は見つめた。

「淳子のてっぺんはここだよ。必ず、無事に俺のところに帰ってくるんだ」

「うん」

「約束だからな」

 

 

確かに登頂は果たした。でも、私たちの遠征はまだ終わっていない。この遠征で何を思い、何を感じたのか。それを胸の中に押しとどめたままでは、きっと登攀そ乗っものが無意味になってしまう。確かに身も蓋もない衝突があった。誰も知られたくない揉め事があった。登ったもの、登れなかった者、ひとりひとりに葛藤があり、悔しさがあり、喜びがあった。その思い出を吐露することで、得られる何かがあるのではないか。その時、本当の意味でこの遠征を終わらせられるのではないか。

 

 

婚約者の分骨された遺骨を抱いて、仁美がBCに戻って来たのはちょうどその頃だった。カトマンズから戻って来た仁美の表情には、深い悲しみが漂っていたが、それでも気丈に隊員たちの前に立った。

「皆さんにはご迷惑をおかけしました。おかげさまで、カトマンズで彼とお別れすることができました。彼はずっと『俺は絶対に山で死なない』って言ってましたから、嘘つきって怒ってやろうと思っていたんですけど、棺に横たわる彼は、やるだけのことは精一杯やったという山屋の顔をしていて、今は、その頑張りを褒めてあげようと思います」

言葉が途切れて、弥生が指先で涙を拭った。隊員たちはみな、下を向き、唇を噛み締めている。淳子もまたマリエを亡くした時の喪失感が蘇り、胸を締め付けられた。仁美が改めて顔を上げた。

「残念ながら、彼はダウラギリを登ることはできませんでした。でも天国へのルートはちゃんと登っていると思います。私は天国にいちばん近いエレベストの頂きに立って、思い切り手を振ろうと思います。彼はきっと見てくれるはずです。これから登頂目指して頑張りますので、どうかよろしくお願いします」

まだ頬は涙で濡れていたが、仁美の表情には強い意志が滲んでいた。