ぼくは今生きている。幾分退屈してきたのでこのブログを書き始めることにした。妻は今晩の献立に仕方なく準備にとりかかった。安易な、スーパーで買ってきた刺身にしなかったのは、昨日回転すしのランチでたっぷりにぎりを食べたからだ。我が家では回転すしは月一にしている。コロナになってからは店内は混むので、持ち帰りにしている。そう言えば年一の外食にしているのは、金沢では珍しい江戸焼の鰻の店、「浜松」だ。なんとミシュランに紹介されているらしい。それはともかく、今日書いてみたいと思いついたのは、表題に掲げた哲学の話で、単に小説を読んで他人の物語を追体験するだけではつまらない、と思い始めてるこの頃に思いついた事柄だった。何しろ自分の人生が哲学の主題になるということについて考えてみようと思ったのだ。自分の人生を哲学の主題にした哲学者がいた。ちなみに「人生哲学」とググって見ると、なにやら偉人の話だったり道徳っぽい話や心理学やスピリチャル系の思想が出てきた。それらは人生哲学かもしれないが、哲学ではない。れっきとした哲学者の哲学でなければならない。ぼくが選んだのはサルトルの実存主義だ。ちなみにまた脱線するが、三島由紀夫はサルトルの哲学を乗り越えようとして、文学と政治の融合を理論化し実践したらしい。その説を吉川圭一という人が論じていた。(三島由紀夫が文学と割腹自決で遺したかった「見返し」思想)サルトルの実存主義に三島はどこかで共鳴と反感を感じていたのだと思う。(東大全共闘との討論にサルトルの用語が多かった)
話をぼくの人生に戻すと、実存主義はそれぞれの個人の生存的、社会的、歴史的な生き方を原理的に解明しようとするところがあって、それは幾分西洋的かもしれないが自分自身を素材にして(つまり一人称で)人生構築できる、と思えたのだった。実存主義哲学はそのように誰でも自分を素材にして考え、自分の人生を作り変えることができるところがいいのである。