開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

テニス仲間の死

今朝テニス仲間のNさんが亡くなった。腎臓や心臓がかねてから悪く、夏の疲れから病院に入院して本格的な治療を始めていた。三週間ほど前には退院して元気を取り戻していた。これからはテニスは無理だと本人もぼくも思っていた。テニスは無理だけどコートには顔を出したいと電話で言っていた。ところが顔を出さずにいた頃、家で倒れて救急車で運ばれていた。一人暮らしでずっと独身だった。救急車は隣の家の人が呼んだらしい。倒れたのは脳溢血ということだった。一昨日集中治療室に入った時には、脳より腎臓の方を先に手術するほど腎臓が悪化していて、手術後意識がないままで昨日病室に戻されていた。多分助からないと連絡があったばかりで、今朝亡くなったと連絡があった。テニス仲間の一人はNさんの家に様子を見に言った時は、玄関のカギはかかっておらず何回も大声で呼んだらしい。中に入っていいものかずいぶん迷ったらしいが、そのまま帰ってきたということだった。それが救急車の前だったか、あとだったかはその仲間の彼は口にしなかった。もし前だったら、もう少し早く気づいて救急車を呼べたかも知れない。でも誰もそのことを彼に訊こうとはしなかった。ぼくはNさんと友人と呼べるほどの付き合いではなかった。でもコロナでなかったら、もちろん見舞いには行ったはずではあるが、立ち入って健康を気遣うほどではなかった。その微妙な距離感覚がNさんの死をどう受け止めるかを曖昧にしている。人生にはそういうことがいっぱいあるように思え、人生はあっけないものだと思った。自分の死も同じようにあっけなく、周囲の人に曖昧に受け止められて死ぬのだと感じられた。